「キリシタン音楽入門」のさわりと筝曲「六段」の秘密

満開のさくら写メール亡き人へ

桜が、8日に静岡で満開宣言があった。80%以上が咲いていることが確認されたのだという。なるほどね、それが満開の定義ですか、知りませんでした。

 

この4月から、FMの6時にまた古楽の番組が再開された。確か2年ほど朝5時からの放送となっていたはずだ。6時には基礎英語の番組になっていて、当時がっかりしたことを覚えている。ところがまた6時からの再開、どういう思惑があったのだろう。

この番組への思い入れは、以前ブログに書いた通り。

(参考

FM「古楽の楽しみ」が「基礎英語」に! - 続 曇りのち快晴

バロック音楽の皆川さんに - 続 曇りのち快晴

 

この番組に長らく携わっておられ、もう故人となられた皆川達夫さんのキリシタン音楽入門」という本を、たまたま手にした。

フランシスコ・ザビエルの来日以来、キリスト教の布教に合わせて、洋楽が日本に流入し、ある程度普及したものの、禁教によって徹底的に弾圧され消滅したこと。その当時はどんな音楽だったのかを再現する極めてスリリングな試み。そしていわゆる隠れキリシタンが唱えた「おらしょ」の再現など、興味ある研究が記されている。易しく解説されてはいるのだが、残念ながら音符もしっかり読めない私には十分理解ができない。ただ、口承で綿々と伝えた来た隠れキリシタンの誦句は、その意味は分からなくなっているものの、250年もの長い時を経てもなお原典にかなり忠実であるという記述を読むと、人の営為の恐ろしさ哀しさに私の胸もいたんだ。

 

皆川さんは、「おらしょ」ではないが、感動的な生月キリシタンの唄を紹介している。氏の紹介どおり、それが篤信であまりに哀しいのでその一部を備忘として書き置く。

 

あー この春はな この春はなあ

桜な花(ばな)かや 散るじるやなあ

また来る春はな 蕾ひらくる

春(花)であるぞやなあ        (もちろん天国のことを歌っている)

 

あー 参ろうやな 参ろうやなあ

パライゾ(天国)の寺にぞ参ろうやなあ

パライゾの寺と申するやなあ

広い寺とは申するやなあ

広い狭いは わが胸にあるぞやなあ    (山田集落「さんじゅわん様の歌」)より

 

先日、「パライゾの寺」(坂東眞砂子)という小説があることを知って斜め読みしたのだが、ここで哀しい遊女が聞いた、浦上四番崩れの信者が歌うのはまさのこれではなかったか。とすればこれは生月島でも限られた山田集落だけに伝わる歌である。もう一度小説の設定を読み直してみようか。


(本棚の奥にあった古い楽譜)

 

ついでになってしまったが、この本の第五部は筝曲「六段」が、洋楽の影響下に作曲されたのではないか、という目を疑う論が展開されている。グレゴリア聖歌のミサ曲「クレド」に、六段の構成はよく似ており、またとくに重要な言葉に相対する部分は音楽的に強調していることが指摘できる、という説で、それを楽譜を重ねて検証している。そして「クレド」は当時の日本でも広く歌われていたこと、また作曲者は一般的に言われている八橋検校ではないだろうこと、私にとっては驚きの説だった。

確かに六段には、異質な作曲の動機がありそうなことは、薄々感じてはいたが、こういう背景が考えられるとは。驚いたので、メモ的に書いておく。

雑文になったが、いつものこと。

 

(追記)改めて読み直して。4.13

「パライゾの寺」の不義をしてしまう主人公の男、豊市は、浦上村一本木の住人という設定だった。従って生月山田村の隠された歌を豊市は知るはずはないのだが、「豊市が隠れ切支丹の信徒を探して、生月島に行ったときに教わったものだった。」と、さすがにうまくかわしている。

 

静岡浅間神社の降り祭を見る

ヤマザクラ警蹕(けいひつ)響き神降ろし



4月に入ると、静岡市では静岡祭りが催されて家康行列や夜桜乱舞などで賑わう。静岡浅間神社では、廿日会祭が斎行され、伝統的な稚児舞や稚児行列などが街を練り歩く。春の到来を桜とともに祝う明るい季節だ。

 

ちょうどこの期に昇祭と降祭という、これも伝統的な行事が行われていることを知り見学に伺った。昇り祭は4月の3日だったが、大雨が降るという予報を見て見学を中止。降り祭が4日の午後4時からなので期待して出かけた。

 

この神事は、浅間神社の祭神である木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)が、父である大山祇命(おおやまつみのみこと)の坐す麓山(はやま)神社へ神幸され、一泊して戻られる儀式である。麓山神社が浅間社の背後の山にあるので石段を上り下りすることから、昇り際、降り祭と呼ばれている、とのこと。

祭事は、神官たちが4時過ぎに麓山神社に伺い、しばらくの祝詞を読むなど神事を行った後に、きらびやかな函状なものを竿で二人の肩に渡し担いで、しずしずと遷されるもの。神官の一人が「おーぉ」と通った声を絶え間なく発している。これは神聖なものが通ることを知らせる「警蹕」(けいひつ)である。

しかし、私にはこの神遷が思ったよりも簡素に思えた。以前、ここの大歳御祖神社の神遷のおりには、周りを絹垣でかこい暗闇に警蹕が響いて、おどろおどろしく感じインパクトが強かったのだが、それに比してやや事務的な感じだった。この神事は毎年4月と11月に行われるので、神社にとっては普通のルーチンワークなのかもしれない。

 

4月と11月の斎行という意味は、農業の神を春に里に招き、秋にまた山にお戻り願うということのようにも思える。富士宮の浅間本宮ではやはり4月に山宮から里宮に真夜中に神を招くという神鉾の神事があり、これも廃れていてものを最近復興していると聞いている。

そもそも浅間神社の御祭神は、コノハナサクヤ姫なのか、という詮議は古くからあった。富士宮の山宮にある由緒書きには「御祭神は木花佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であるが、古くは富士大神を申し上げ、後には浅間大神(あさまのおおかみ)とも申し上げた」と解説されていた。富士山の神は元来、火山を畏れ鎮める神だったかもしれないが、併せて水と農業の色彩ももつ。静岡のお浅間さんの昇り祭、降り祭は、娘神が父神に会いに行くようなロマンチックな筋立てとなっているが、むしろもっと古い山と水の信仰がベースなのではないか、そんな思いにとらわれたが、特に裏付けもない感想である。

それにしても、祭りは閑散としていて境内に人はまばらだった。本殿も今長期の補修工事に入っていて、すっぽり覆われていて残念だが趣は全くない。友人と異口同音に、もう少しイベントとしてもしっかり人を呼べるようにやれないものかね、と話したものだ。あまり地味だと、神事自体が継続できなくなってしまいそうだ。そんな感じもした。舞台設定もいいし、謂れも古いものがある神事である。見に行って少し気が抜けたのも確かなのである。もちろん人気のある祭事もいろいろとあるのだが。

ヒトリシズカが来た

起きるよりヒトリシズカを幾たびも

 

ヒトリシズカがようやく咲き始めた。「造化の妙」についついみとれてしまう。

はじめは赤黒い太いマッチ棒のような茎が慎重にかおをのぞかせて、よく見るとその先はこれから開いていく葉であって、中に白いものがちょっと覗いている。これが花だ。そして二三日もすると、赤黒い葉は緩やかに開いて、しっかり抱いてきた大事な白いものを春の日に解き放す。白い花は歯間ブラシのような形状で、可愛くきれいだ。

このように、じかに花が飛び出してくる芽生えはドラマチックだ。思えばフキノトウもセツブンソウもそうだった、春先のドラマかもしれない。

 

庭には4か所に植えてあるが、昨年そのうち一つに白いカビが出て駄目になった。今年は3か所からぶじに発芽してくれた。

と思ったら、昨日今日と25度になる夏日。春を通り越して初夏の陽気になり、陽ざしが痛いほどだ。キンポウゲもぽつぽつと咲いてきた。ヒトリシズカとキンポウゲではつり合いが取れない。鶯が毎日泣いてくれるが、もうホトトギスが聞こえてきた。

春の訪れを楽しむ、という余裕をあたえてくれそうもない。

 

ヒトリシズカは、一人静と書いて静御前から名をいただいたと言われるが、眉掃草とも呼ばれていたことを、先日初めて知った。眉掃(まゆはき)って何なのか分からなかったが、ネットで調べて、ああそうか成る程なあと思った。しかもこう呼ばれることは普通に知られているらしく、知らなかった自分がちょっと恥ずかしい。

 

「花の文化史」で山田宗睦さんが、芭蕉奥の細道の尾花沢でよんだ

 

眉掃を俤にして紅粉(べに)の花

 

をひいて、これは「婦人の眉掃きにベニバナの花の形が似ていると見たのである。・・・しかし眉掃きの形に似ている点では、ヒトリシズカのほうがはるかにちかい。眉掃き草の名をあたえたものたちに、わたしは賛同する。こい輪生の四葉枚にうく花糸の白いのもいい。」と惚れ詞を綴っている。

 

眉掃きを私はよく知らないが、ペンペン草とかカモジ草など庶民生活の身近にあるものの名をつけられた植物には親近感がわく。ヤブレガサジュウニヒトエ、イワウチワなどの名前が思いつくが、みんな暖かさに驚いて目覚めているのではないか。



寒戻り・料峭

突然の一平 解雇寒戻る

 

驚きのニュースだった。大谷が無辜の天才野球少年に思えるだけに、こうした「俗世間」が彼を襲うのは、なんとも寒々しく、自分にも忸怩とした気持ちがよぎる。

 

さておき、

あの暖かさが一変して、強い寒気が来た。この寒の戻りを俳句では、余寒、料峭、春寒、凍返る・凍戻る、冴返る などともいう。昨日今日の陽気はこの季語がピタリだ。

 

いつもより少し上流の堤防を歩いた。

河川敷のヤナギが黄色い花をつけ始めていて、遠目にも樹全体がぼうやりと黄色くふくらんで見える。時計は午後3時を過ぎただろうか。

ヤナギの黄色いふくらみは、日が翳り汚れてみえる藍色の山を背景にして、いかにもわずかな時季をかすめるように、一瞬の輝きを見せている。

このぼうやり感を若いころはいらいらして見ていたが、最近は愛おしく思えるようになった。

寒波が来ているらしい、急に冷たい風がはげしく吹いてきて帽子を飛ばす。フォーレのレクイエム、2番の奉納唱がイヤホンから流れてくる。寒さと暖かさが入り混じった、春先の不安な空に丁度いい。

花の種を蒔こう

これ以上蒔く隙はなし花の種

 

悪い癖なのだが、花が終わると、ちょっと種を取って紙に包み、その辺に置いておく。しっかり記録しておかないので、そのうちに何時採ったのか、何の種なのかわからなくなる。 

・・・そんな種を、今日は頑張って種まきポットにまいた。写真は半分で、あともうひと組みある。一応記憶と知識を頼りに何の種かを確かめたが、私の花の管理など全くでたらめなので、恥ずかしいのだが、芽が出た時のためにメモをしておく。

 

アサガオ、ユウガオ、キキョウ(白)(紫)、オケラ、センボンヤリの春の花の種らしきもの。このうちオケラとセンボンヤリは全く発芽の自信がない。

ヤグルマソウとニゲラとフジバカマは直播にするつもり。これらも種が全部芽吹いて呉れても困る。その他正体不明が2つ、多分山でとってきた何かの蔓もの。

 

野菜類は、ゴーヤ、カボチャ、ツタンカーメン(豆)、木は、ナツメの実。

カボチャの種はずいぶんペシャンコで芽が出てくるのかどうか覚束ない。芽が出て大きくなって、蔓が庭じゅう這いまわるのも面白そうではあるが・・・。最近の野菜はハイブリッドとかで、生殖能力がないとも聞くが、それもどうなるのか見届けたい。

ナツメは、実を求めて鳥がくればいいなと思うが、植えて育てるようなスペースがない。芽が出てきたらどうしよう。無責任な悩みだ。

 

春の庭に出て土に匂いを嗅ぎ草をとったりするころになると、チェコの作家、カレル・チャペックを読みたくなる。彼の「園芸家12カ月」(中公文庫:小松太郎訳)はおかしくて読んでいるとクスクス笑ってしまう。園芸マニアが土を耕して、種を蒔いて、花に一喜一憂している姿がユーモラスに描かれているのだ。つぎは2月の一部。

「春になると、否応なしに、園芸家は庭におびき出される。スープのスプーンをおくが早いか、すばらしい青空に尻をつき出し、小さな花壇で早くもめいめい何かはじめている。・・・あっちで草を抜いたかと思うと、こっちで石っころをひろう。・・・こんなかっこうで彼らは春をたのしんでいる。そのあいだに、彼らの尻の上では太陽が燦爛たる円をえがいて進み、雲がながれ、空の鳥たちが交尾をしている。桜の蕾はすでにほころび、芽はみずみずしいやわらかな葉をひろげ、ウタイツグミが気がくるったようにさえずっている。」

この気持ち、実によく分かる。うまい文章だ。この本の挿絵を描いたカレルの兄は、ホロコーストで亡くなっているのだという。

(ウタイツグミはウタツグミのことかもしれない。日本にはいないようだ。ネットでその鳴き声を聞くと確かに声は大きく多様な鳴き方をする。ただし飛翔しながら鳴いている感じではないが。)

 

ところで場所がないというのに、昨日またホトトギス(江戸の華という名札だった)、カサブランカ、テッセンの苗を買ってきてしまった。さあどうする?

 

芽吹き 3様

ふくぶくと吹いて膨れろ草芽ぶけ

 

3月の光はやっぱり強くて暖かい。

この日射しをうけて、草の芽たちもどんどん膨らんで土から顔を出してくる。

 

これはヤブレガサ。もう少し経てば名前のとおりの姿をした葉を開いてくる。まだ傘をたたんだ状態だが、いかにもヌーボーとしてユニークな姿をしている。近くの山に行けば珍しくもないのだが、庭先でこうして見るのもいい。

 

ヤブカンゾウ。奴さんのような姿で並んで出てくる。小さいうちは可愛いのだが、何しろ旺盛な伸び方をする。花も力いっぱいで大雑把。

 

これは葉より先んじて面白い花をつける、タンチョウソウ。この名前で売っていたのでそうしているが、正式な名前があるのだろうか?イワヤツデというのに似ている気もするが。

 

これはベンケイソウ。ミニチュアのおもちゃのような姿でふつふつと小さい顔を出してくる。これも生命力あふれる草だが、このところ花が咲かない。栄養過多か?

10年以上前に鳥海山のふもとの遊佐町の海岸から持ってきた株。静岡は温か過ぎてこいつもやる気がしていないかもしれない。

 

 

「震洋」特攻艇の格納庫跡を訪ねる(清水の三保)

草枯れて戦跡埋ずむ三保の浜

 

(一番目立ち大きい格納庫)

 

清水の三保は羽衣の松、白砂清松と富士山の景観で親しまれ世界遺産となっている。だが、ここに80年前の戦争遺跡が残されていることは、私も知らなかった。

先日、ふと目にした児童用の静岡市の歴史の冊子に、小さく、本当に小さく「震洋」の基地があったと書かれていて、なんだろうと思いネットを調べると、三保には海軍航空隊がありここに第136震洋航空隊がおかれ、「震洋」の格納庫が幾つか現存しているという。市民の多くは知らないのではないか。さっそく友人と現物を確認にいった。

2024年2月時点での状況報告としておきたい。

 

震洋」とはなにか?

終戦近くに開発された非道な人間兵器、小型の特攻ボートである。小型のべニア張りのボートにトラックのエンジンをつけて船頭に爆薬を積んで、猛スピードで敵の大型艦に体当たりする。費用も安く上がり終戦までに約6000台が量産されて、全国の基地に配備されたのだという。

(NHKの WEB戦跡からお借りしました)

 

三保基地にはしかし、3,4台程度しか配備はされなかったようだし、またここから死の出撃はなかったらしい。それを知って幾分気が楽になる。

 

三保を行くと、先ず分かったのが上の写真の格納庫。これが一番目立ち、一番大きい。住宅内にあり現在倉庫として使われているようだ。80年経ってもコンクリートはまだしっかりしている。(三保3117-3)

 

次は三保マリーナの敷地にあり、倉庫になっている。

 

次は道路わきに1mほどの高さでその上部だけを見せていて、これは何だろう?とおもわせる風情である。隣の廃墟住宅ともども路面よりもずいぶん低いところにあり、「砂の女」を思わせる。(三保2903-9)

 

次はマリーナ入口から堤防に沿って北に5,60mの大きな松の影に1基。これもかつては民家の倉庫だった様子。

さらに付近に2基ほどあるという情報もあるが、ひどい竹やぶで昼でも暗い内部はうかがい知れず、2人で顔を見合わせて断念した。

次は、東海大学松前球場のライト側の林の中に土手に頭だけを出して隠れていた。これは奥行きがあまりなく、渚とも離れており隊員の避難所かとも思える。汚れていて中にはタヌキの死骸が腐っていた。

 

現場では以上だが、

ネットを探していると、浅見幸也さん(静岡平和資料館をつくる会運営委員長)が次のように語っていたので、分かりやすいので引用させていただだく。

 

日本の戦況が著しく悪化しはじめた1944年(昭和19)には震洋特別攻撃隊が編成され、海軍飛行予科練習生(予科練)の卒業生たちが全国100箇所以上につくられた基地へ配置されました。静岡県では伊豆半島(東部地方)を中心に5隊が配置され、なかでも三保基地には第136震洋隊、総員48名が集まったそうです。

とはいえ、隊員の多くはパイロットになるべく志願し訓練を行ってきた人たちです。ベニヤ板と小型エンジンでつくられた簡素なボートをみて、実際は落胆する隊員も少なくなかったといいます。

(参考 https://gakuseinews.eshizuoka.jp/e1566994.html )

 

さて、

三保におかれた海軍航空隊をしのぶ遺跡はあまり残されていないようだ。三保灯台の近くに「甲飛予科練之像」が建てられており、次のように書かれている。

だが特攻隊、「震洋」のことには触れていない。予科練震洋特攻隊とはどんな関係にあったのだろうか。

 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた。

学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。

 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。

 

予科練というと土浦の七つボタンの軍歌を想起するが、恥ずかしい話、三保にもあったことは知らなかった。予科練の建物の一部が残っているという情報もあるが、はっきりしない。

その広大な跡地は高校や東海大学の施設に使われているのだが、付近の農業ハウスは壊れたままだし、かつてあった遊園地は竹やぶと化している。近くのホテルももう廃業している。この三保地区は造船業の不況などで人口が激減してしまったという。

 

湾の内浜をうろうろしていると、湾内のクルーズ船から観光客が降りてきた。すぐ脇の藪の中に「震洋」格納庫があることをもちろん知りもしない。わたしもこの時初めて知ったのだった。

以前、高知県で飛行機の掩体を探してみたことを、思いだしている。こちらは三保よりも保存が進んでいた。

参考 

戦争遺産「掩体」を土佐に訪ねる - 続 曇りのち快晴