SDGsじゃなくてSDG

最近よく目にするSDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称だという。国連が掲げたもので、17の大きな目標と169の具体的なターゲットがある。

この略称はあまり好きではないが、世界の貧困と飢餓の撲滅、教育の確保、健康や水の確保など、本当に国連にやってほしい項目が並んでいる。これを実現しないと世界はテロで滅びる予感がする。けれど現実はアメリカファーストに代表される自国主義など、大国の思惑は全く逆で格差は広がるばかりだ。SDGsというアルファベットを見るとき空々しさを拭いえない。

 

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(バッハの楽譜模様   BWV1041のコンチェルトと思われる)

 

でも今書こうとしているのは別のSDGのことである。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは敬虔なルター派の信者で、多くの宗教曲を書き残している。その自筆譜が残されているが、まるで絵のような特徴がある。作曲家の感情が音符に絵画のように表出している感じがする。

以前、バッハの生誕地アイゼナッハという小さい町に行ったときに、生家のみやげ物店で布袋を買った。バッハの楽譜がデザインされたものだった。(写真上)彼の2番目の奥さんアンナ・マグダレーナは賢い人で、美声の持ち主だったというが、彼女の写譜がバッハの手にそっくりになり、専門家でもなかなか見分けが難しいほどになったという。

それはともかく、バッハは楽譜の最後にSDGと書き入れることがあった。これは、Soli Deo gloriaソリ デオ グロリア)の略で、「神にのみ栄光あれ」という意味のルター派の唱句みたいなものらしい。私は礒山雅さんの本*1でそれを読んだのだが、自分で確認したことがないので、興に駆られて、今回ライプチヒにあるバッハ財団の図書館からネットで自筆譜を落としてみた。そしてBWV175のカンタータの最後のページから、なんとか下の写真のSDGにみえる部分を切り取ることができた。自信はないがこれのことだと思われる。

f:id:zukunashitosan0420:20200221065610j:plain(BWV175の自筆譜から)

バッハにとって優れた曲を書くことは、神のためでもあったのだろう。やはり自筆からは生々しい息吹を感じる。

ちなみに彼は楽譜の頭に、JJと書いている。これはJesu Juva「イエスよ、我を救いたまえ」を意味するラテン語だとのこと。記入はもちろん全部の楽譜にではない。礒山さんはマタイ受難曲の書き込みを紹介している。

SDGsから思いついて、バッハのSDGを調べてみたというだけの話。

SDGに親しみのあるプロテスタントの方々は、国連のSDGsを私などとは違った語感で受け止めておられるのだろうなとも思った次第。 

 

*1 礒山雅 「バッハ 魂のエヴァンゲリスト」 東京書籍

モグラの穴に驚く!

春の野や土竜(もぐら)は眠くやわらかく

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公園の芝生にモグラのトンネルがよく見えていた。音と臭いでミミズを追って捕まえ、さばいて泥を出して食べるのだという。本当かな。

我が家の北側にも棲んでいて、たまに穴をつぶしたりするのだが、ネズミに比べて害が少ないので、これまであまり気にしていなかった。

ところが、昨年の暮れ頃、こいつが猛然と穴を拡張したではないか。

北側のいつも穴を掘っているところから、隣との境界のコンクリート壁に沿って10mくらい延々と土の盛り上がりが続いている。ミョウガ、ホタルブクロ、セキヤノアキチョウジ、山椒の木の脇を通って、山茶花の地下をくぐっている。

それから東側のブロックにぶつかって南に方向を変えて、またブロックに沿って、10m程シュウカイドウ、ジャーマンアイリスシュウメイギク、銀ミズヒキ、クリスマスロース、ニリンソウなどの根をかき分けて、南側のブロックまで。途中にあった鉢は傾いている。

そこから北上してナンテン、シャガ、ヒガンバナなどの根元に土を盛り上げて5m。そこで穴は終わっているようだ。

呆れてしまって、しばらく放っておいたのだが、先日、水をまいている時にふと思いついて、巣穴を水で攻撃してみた。ホースからピンポイントで鋭く放水していると、10秒くらいしたら、ガボッと穴が開いて水がどんどん吸い込まれる。意外に穴は深く、20㎝よりまだ下だろうか、しかも結構大きい。そこに泥水がガブガブと飲み込まれていく。これには驚いた。かりそめの穴ではなかった。花壇の地下などは、一本の通路穴ではなく、縦横に空間ができていて、交差点のようになっていた。

この穴をすべて水で攻撃してつぶした。ゆうに一時間はかかっただろうか。さらにネズミを追い払う匂いのきついスプレーを穴に注入しておいた。これでしばらくは大人しくしてくれるだろうか。モグラ君よ、何事もやりすぎるとたたかれる。

駿河の七観音を巡るー2 法明寺

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駿河七観音の発祥の地は、静岡市足久保にある高福山法明寺だといわれる。いまは曹洞宗の寺である。東海道から15キロほど安倍川および支流の足久保川をさかのぼった山村だが、静岡は南アルプスまで奥が深いのでまだまだこの辺りは山の入り口である。

 

2020年1月に寺を訪ねた。ここまで来ると、市街地とは打って変って静かな谷間の風景が広がっている。寺は川筋の道路から一気に50mほど上がった見晴らしの良い山肌に切り開かれた茶畑の中にあった。何故こんな辺鄙な場所に、由緒ある寺があるのか?と素朴な疑問がわく。

 

さて、この伝説の本をさがすと「新版 駿河の伝説」*1に「法明寺の楠」という話があり、またその変化したものがいくつか記載されていた。出典が記されていないのだが編者の小山枯柴さんは「葵文庫」所蔵の江戸時代の書物から採話したようだ。*2

 

この本によれば基本的な伝説は次のようなものである。

安倍郡足窪村に高福山法明寺という寺がある。養老年間にこの村に大クスがあった。クスは毎夜光を放った。養老7年(723)僧行基は東遊の時、この奇瑞を聞き、この大クスを伐って観音7体を彫刻した。この寺の本尊はその一つである。後年寺が焼失したとき、この像は煙の中を抜け出てはるかに飛んで草の中にあった。

これに加えて、

行基が来た理由を聖武天皇の病気治癒とする話、また巨木は伐ると血が流れ出るので、行基が祈って鎮めたという話、またいくら伐っても夜になるとまた元通りになるので切屑を焼きながら伐ったという話など、いろいろな要素が混入して複雑になってくる。

(小山枯柴編著「新版 駿府の伝説」羽衣出版 (静岡県の伝説シリーズ⑥))

 

法明寺は大きな杉の参道を上ると仁王門がまっている。ここの仁王さんがどういう訳か数十センチしかない小柄な像なので微笑ましい。本堂を脇に見て、石段の奥に進むと、木立に隠れて観音堂がある。中はよく見えない。七観音のいわれを刻した石碑や行基の石碑がある。今はもうクスノキは見あたらない。檀家も少ないだろうし寺の維持も大変ではなかろうか、などと余計な思いが頭をかすめる。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200214201115j:plain観音堂

さて、この伝説集には神木、巨木が出てくる。ただ大きいだけではなく、光を放つとか、切ろうとしたら血が流れ出たとか、伐っても夜になるとまた傷が元のようにふさがったとか、奇怪な話が多い。

川筋は異なるが藁科川の奥、清沢にも巨木の怪異な伝説が伝わっているという。

神社の大杉の精が、村の美しい乙女千代姫に焦がれて、夜な夜な美少年に姿を変えて通った。怪しんだ親が麻糸を綯って娘に渡し、それを男の裾に縫い付けさせた。翌朝糸をたどると大杉の空ろに続いていたので、親はこの木を伐らせた。ところが伐った木端は夜になると木に戻り元通りになるので、伐り倒せない。そこで木端をすぐに焼き捨ててようやく倒した。その材で空ろ舟を作り、大水の時に姫を乗せて流した。空ろ舟は伊豆まで流れたが大風に吹き戻されて安倍川を上って船山に鎮まった。*3

と、要約すればこんな風である。船山は藁科川に今もある小島のことである。空ろ舟とはまた実に神話的なエピソードである。

 

そのほかにも、この「新版 駿府の伝説」を読むと大木の精霊が沢山出てくる。およそ古代の山々は、古事記の表現を借りれば「さばえなす」神々であふれていたのだろう。 

f:id:zukunashitosan0420:20200214201241j:plain行基の碑)

霊木を行基という仏教の僧が伐り、仏像に仕立てたということは、在来のアニミズムの神々を仏教が支配し、その霊威を保持しながら仏教の神に吸収したと理解できるのかもしれない。自然界の精霊のいわば神仏混交といえるのかもしれない。しかもその時期が、行基聖武天皇のころとなると、国中に国分寺を作らせたり大仏を作らせたりして民をいわば教化した頃に当たる。こうして土地の精霊たちは金ぴかの仏像に隷属していくことになる。(七観音像が金ぴかだったわけではないが)

 

素人の思い付きだが、七観音は、東国駿河に跋扈する山地の精霊を、仏教(といっても密教的な呪術的な宗教)が支配・吸収していく過程で生まれたものではなかろうか。巨木を刻むということの象徴的な意味は、その辺にありそうな気がしてくる。今後の観音寺巡りで徐々に理解していきたい。

 

法明寺の御開帳は、6年に一度とも聞く。来年がその年に当たるかもしれないので、その折に参拝したいものだ。今回はご本尊も脇仏さんも映像がない。いずれフォローするつもり。

*1 小山枯柴編著「新版 駿府の伝説」羽衣出版 (静岡県の伝説シリーズ⑥)

*2 葵文庫 徳川幕府の文書を保管しており静岡県立図書館に所蔵されている。

 なお、同図書館にレファレンスしたところ、「駿河記」(1820年)「駿河国風土記」(1834年)などに書かれているとのことです。私は原典は読んでいません。

*3 「新版 駿府の伝説」の143p 「うつろ舟」から

日本坂峠を歩く・・・古代の東海道? -2

前回のフォローになるが、

「新版 駿府の伝説」にこの古い東海道についての話があったので、メモしておく。はっきりしないが、「葵文庫」に残された書物からの編集であるようだ。「葵文庫」とは徳川幕府が所有していた書物で現在静岡県立図書館が所蔵している。

ここに書かれている中原津島神社は現存する。地名をたどるとルートは先の古代駅路に近く、伝説は案外史実に近いかもしれない気がしてくる。

 

60 やまとだけ道

大里村中原にある。長田村小阪(坂)日本坂より、安倍川を越えて大里村安倍川に入り、中原津島神社の北を過ぎ、馬淵、稲川を経て、豊田村に入り、有度村草薙に達する径路で、これを日本武道といっている。日本武尊が東夷ご征伐の際、通られた御道筋であるからだということである。

(小山枯柴編著「新版 駿府の伝説」羽衣出版 (静岡県の伝説シリーズ⑥))

日本坂峠を歩く・・・古代の東海道?

今回は友人と静岡の平野を西に区切る山塊の尾根を歩いた。

低山だが急峻なこの山塊は、東海道の難所であり時代によって山を越えるルートが変わっていて、その変遷を知るのも面白い。現在は国道一号がトンネルで通過するが明治のトンネルも立派に残っている。江戸時代の官道はとろろ汁の丸子から宇津ノ谷峠を越えている。中世はそのやや南側を越えるルートで「蔦の細道」といわれ伊勢物語で有名な歌枕にもなっている。

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今回のハイクでは、さらに古い古代の峠と言われる「日本坂峠」を目指した。日本武尊が越えたであろうといわれ、峠の名もそれに由来するらしい。宇津ノ谷峠よりもさらに海岸に近い。

 

静岡側の小坂という集落に車を置いて、林道をたどること25分。突きあたりから山道に入り荒れた急坂を30分あえいで、ようやく日本坂峠に到着。標高は302mある。反対に下れば焼津市の花沢集落で、ここにも古い家並みが残っている。

 

当日のコースは、この峠から北に尾根筋を約70分、アップダウンを繰り返してへばったころ満観峰470mの大眺望。富士山が白く静岡市街のビルの上に見えて実に爽やかである。この風景を見るだけでも「来たかいがあった」と友人はつぶやく。平日にもかかわらず2,30人がお昼を食べていて、人気の山なのである。お昼を済ませて山頂から東口を降りてもと来た小坂集落へ、やく1時間の下りとなる。

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お茶畑は荒れ放題で林道だけが立派に残っている。以前は2,3年におきに来ていたが、また急速に荒れている感がする。放っておけばお茶の原生林になるかもしれない。

 

さて、日本坂峠だが、古代の東海道だったという説がある。急峻で人が歩くのがやっとで、牛はともかく馬は無理の感がするがどうなのか。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200209074917j:plain日本坂

実は古代の東海道が、JR東静岡駅の南側に出土している。

曲金北遺跡と呼ばれていて、その道路跡は埋め戻されたが、一部が古代の道の案内看板とともに地表に分かる空間にして残している。

発掘の結果は驚くべきものだ。側溝を入れた道路全体の幅は約15m、路面の幅約9m、これが延長約350m一直線に伸びていたのである。調査の結果、この道は奈良時代から平安時代前期のもので、10世紀の初頭頃には廃絶されたものとされた。推定では、この高規格道路が静岡の平野を一直線に現在の興津付近まで貫通していたと考えられるというのだ。

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この官道は日本坂峠を越えてすこし北上し、ほぼ今の国道1号の橋付近で渡河し、あとは一直線に興津まで走ったということだろう。

律令期における地域支配の一つの方策としての地域計画が極めて大がかりな企画性の高いもの」*1 であり、古代、あなどれない!

大宰府の水城を見たことがあるが、当時の土木事業の技術レベルの高さそして政治的な力は相当なものだとおもったが、この道路もまた然りである。

 

ただしこの道路は、「駅制」の道路で、それは中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度だという。概ね16キロごとに駅を置き、たぶん使者は文書を携え馬を乗り換えては走ったのだろうと思われる。いわば光通信網みたいなものであって、市民の生活道路ではなかった。ではあの急な日本坂峠を一体どうやって越えてきたのか、私には疑問が残る。

ついでに、「伝馬制」の道も別にあったのだという。そちらは文書ではなく使者が通るいわば人間の道だった。静岡でいえば北街道、そして古代においても日本坂峠ではなく宇津ノ谷峠を越える道が、伝馬制の道として使用されていた、すなわち道は並存していたという説もあるという。*2  制度はわからないが、生活感覚としては妥当に思える。

おそらく奈良時代などには、静岡平野は安倍川の流れが不安定で、一面の河原だったのではないだろうか。ハイキングの途中から見る静岡の街並みから、当時を想像するのは難しい。が遠く富士山の方角に、次の駅、興津が見えている。

 

 *1 「曲金北遺跡」 1997 静岡県埋蔵文化財調査研究所 第92集を参考にしています。(私、素人が読み砕いてます。) 写真も同書から。

*2 同上 212p

葉ボタンも薹が立つまで

葉牡丹や薹立ち咲くまで見とどけむ

 

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正月用に毎年、葉ボタンを寄せ植えにするのだが、今回は矮小の寄植え鉢を買ってきて間に合わせてしまった。小さいけれど玄関わきに置くと、幾分は華やいだ演出になる。

 

この葉ボタン、もともとキャベツと同じものだという。でもよく見ればなかなか複雑な深い色や鮮やかな色をしているし、細かい波打ちのような葉の先は工芸品のようでもある。残念ながらいつも足元にあって、素通りされている。だから玄関先の棚に上げてよく見えるようにしてやった。

 

わたしは野性っぽいのが好きなので、葉ボタンも放っておいて薹が立って花が咲くのを楽しんでいる。これも菜の花である。そして満開になり種を付けてみっともなくなる寸前まで玄関先に置いておく。それが彼らが生きている目標であるはずだし、それは美しいはずだ、と勝手に思っている。

 

こんなにカラフルなものなので、日本に来て歴史が浅いのだろう、と思っていたら、松田修さんの「花の文化史」を読むと、

「日本へは江戸時代に、はじめオランダ菜と呼ぶ緑色葉のものが渡来し、次いで葉に変化のあるものが渡来したらしい」。すでに1778年の書物に見えるとのこと、意外だった。

だが渡来した当初は美しいものではなく、今日のように色彩に変化のあるものは、日本で栽培改良したもので、原産地のヨーロッパではおもに食用や家畜の餌になっている。とのことだ。

日本人はものを改良するのがうまいね。

 

(参考 松田修「花の文化史」 東書選書

暖冬大寒

大寒の地の底を打つ鼓動かな

 

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(早々とリュウキンカが咲いた。雪山では4,5月頃咲く花だ。)

 

暖冬で、雪国に雪がない。クマは冬眠しない。ヒマワリが咲き始める。

困ったものだ。

という以上に自然の微妙で複雑なバランスが壊れると、いろいろ問題が起きてきそうだ。気候に合わせて生物は消長、変化するだろう。農作物の適地も変わる。花と昆虫はうまくやっていけるのだろうか。今までにない生き物も突然変異で出てくるかもしれない。

中国が生み出した新型コロナウィルスもそんな一つかもしれない。

 

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 おやっと思ったら、ムサシアブミが芽を伸ばしている。まだ早すぎやしないか?気温が下がったら凍ってしまう。(赤いのは去年の種)

 

節分草。こちらは想定の範囲か。

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