蛇か!いやイモムシだ(閲覧注意)

芋虫や生まれながらに太々し(ふてぶてし)

 

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なんだと思われる方もおられるだろうが、これはイモムシ。まったくヘビそのもの。

先日、ムサシアブミの葉が食われているので、よくみると、このイモムシ。まあ、葉っぱの二三枚ならいいにしようと思って放っておいたが、急速に葉が食われていくので、さらによく見ると、何と4匹もいるではないか。

見るのも気持ちが悪いけれど、仕方ない、今日おそるおそる捕まえて、藪の中に移ってもらった。

 

実はこのイモムシには、何年か前にお目にかかったことがあって、そのときは、余りに蛇に似た擬態にショックを受けた。まるで蛇の子。眼がにらんでいる。スズメガの幼虫と思われるが、正確には分からない。

 

(参考:https://zukunashitosan0420.hatenablog.com/entry/66524869

巣立ち鳥 3様

巣立ちたり本能のまま淡々と

 

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ひと月ほど前、雨の田んぼの畔に、ムクドリの親とひな鳥の姿をみつけた。親が何かを啄んできてはひな鳥の口に渡している。そんなにたくさん虫がいるのかなと思うほど、頻繁である。雛はもう親と見分けがつかないほどの大きさだ。独り立ちも近いのだろう。親が場所を変えると、すぐに雛もそれを追って飛び立ち、また近寄っては餌をねだっている。

 

これはカラスの親子。ねだり方が激しいので、思わず目を凝らしてみた。そのあとすぐに親鳥は餌を求めて舞い立った。 

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これはヤマバト?の親子か?水槽に来て、並んで座っていて、一羽が盛んにもう一羽の頸や頭などをグルーミングしている。つがいかなと思ったが、見ているとどうやら一羽はされるままで、子どものようだ。30分ほどはそんな仕草をしていただろうか。

ハトと言えばピジョンミルクだが、今回はそうした給餌ではなさそうだ。以前、ピジョンミルクの現場をつらつらとみることがあって、その折の写真を探したが、見つからなかった。 

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ツバメはあちこちに普通にみられるから、説明の必要もないだろう。ツバメはお喋りだから、巣立った子供たちが家族そろって電線で井戸端会議をしているのを聞くと、本当に嬉しそうだ、が、いささかうるさい。

 

親鳥たちは、こうして事も無げに役目をこなして、それを苦労とも何とも思っちゃあいない。DNAに仕組まれた仕業ではあるが、悲しいほど見事なものだ。

ユリと子規

鬼百合やうつむいたまま裾まくり

 

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風で折れちゃったけど、活ける?

お隣さんが、カサブランカを一茎持ってきてくれた。大きなツボミが2つついている。二三日後、二つとも大きな花を開いてくれた。夜は家中を香りでいっぱいにしてくれる。

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我が家の庭のカサブランカは、株も大きく豪勢になっていたけれど、残念ながら突然絶えた。ユリ根が虫に食われたのだろうと思っている。今年は細い茎が伸びていて、まだ花には遠い。

カサブランカは、白い家、という意味のスペイン語らしいが、花自体は日本原産のヤマユリをヨーロッパが改良したものだという。ツバキもそうだが、彼らはみんなバタ臭く変えてしまう。以前書いたブログ参照。 

https://zukunashitosan0420.hatenablog.com/entry/64612787

 

玄関先のプランターでは、今年も豪勢にオニユリが咲く誇っている。これが、カッと咲いてくると梅雨明けが近い。これにはアゲハ蝶がたくさん寄ってくる。それを見ているのも楽しみの一つ。

 

 

正岡子規は、亡くなる年に集中して百合の句をよんでいる。何かあったのだろうか?「小園の記」に庭の植え込みを書いているが、そこにユリは見当たらないから、多分切り花をいただいたのかと思われる。

子規がこっそりと布団の下に入れて書いていた「病臥漫録」には、メモのように14句が書いてあり、そのうち10句に〇がついている。自分で選句したと思われる。

「病床六尺」の8月5日には、多分その10句から、虚子と碧梧桐に選句させている。

碧梧桐は 用ありて在所へ行けば百合の花

虚子は  姫百合や余り短き筒の中     

 を選句した。そして二人はお互いの選句を、選ぶことがなかったと、子規は書いている。子規は苦心の末の作、

畑もあり百合など咲いて島ゆたか

を碧梧桐が第1に取ったと書いて行間に嬉しそうな感じが漂うが、「この句いまだ虚子の説を聞かず。賛否を知らず。」

碧梧桐のとった句は、オニユリのような野性的な赤い百合を感じるし、虚子がとったのは姫百合で白い繊細さを感じる。二人の資質の違いなのかな。私はどちらか言えばオニユリ派だ。

それにしても、余命一か月の子規の蝕まれた肉体に、こういう強い創作意欲があるのは驚くべきことだ。

キキョウへの想い

寂しさの風船割れて桔梗咲き

 

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庭のキキョウがさいた。咲く前のツボミがふくらんでくるのも楽しかった。地植えのものが、ヨトウにやられてしまったので、この春苗を買ったものだが、鉢でしっかり花をつけてくれた。

私にとって、青いキキョウは盆花であって、私の生前に亡くなった姉の花である。彼女は戦後の混乱時にジフテリアで死んでしまった。その墓地に盆の時季に咲く花が、青いキキョウだった。そんなことを、かつてブログに書いたことがある。この花が咲くと毎年決まってうっすら悲しく思い出す。

 

朝4時ころ徐々に明るくなってくる庭に見え始めるのが、白いキキョウの花だ。これもいいのだが、やっぱり紫で青の強いものがいい。それが野原にスッと一輪、向こうにも一輪と咲いているのがいい。それはちょっと貞節で素っ気ない美女のようで、なにか馴れ馴れしくできない風情がある。今話題の鏑木清方「築地明石町」を思い浮かべたりする。

きりきりしゃんとして咲く桔梗かな   一茶

 

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キキョウを、愛読する宇都宮貞子さんの「草木おぼえ書」に探してみたが、項が立てられていない。信州でお盆の墓に飾る花の一つとして、載っているだけだ。新版の文庫本にも載っていない。どうしてだろうな。察するにキキョウは、いろいろな方言、地域による呼び方の違いが無くて、単独で取り上げるテーマにならなかったからかもしれない。不思議なほどにキキョウはどこへ行ってもキキョウと呼ばれていて、地方色がない。すなわち、キキョウという名前と一緒に分布が広がったと思われる。

万葉集にもでてこないので、比較的に新しく侵入してきた花かと想像されるが、事実はそうでもない。すでに平安時代枕草子に、キチコウの花と出てくる。しかしこれ自体漢文読みだから日本名はなかったのだろう。その後も「和歌に詠まれることは少なく、勅撰集には桔梗を詠んだ歌が一首も見えないのは特徴的だといえる」(「古典文学植物記」)と、文学世界では控えめであったようだ。地方の呼び方が無いこと、和歌にも詠われないことなど、理由が分からない。美人は敬遠されるということか。朝鮮ではトラジという国民歌になっているのに対し、随分と扱いが違うのも不思議だ。

 

民謡に唄われることも少ない。私のちいさな民謡本には岩手県の「外山節」に

♪ わたしゃ外山の 野に咲くキキョウ 折らば折らんせ 今のうち

という歌詞を見つけるくらいだ。この歌詞は岩手県のホームページによれば武田忠一郎が昭和7年に採録した、とある。武田忠一郎は岩手の民謡の採録に大きな実績を残した人である。

ところが、昭和35年発行の岩波文庫の「日本民謡集」では

「折らば折らんせ」ではなく、「掘らば掘らんせ」と載っている。こちら本の方はいわば文献を整理した歌詞であるので、「折る」の方が元唄かもしれない、が、「掘る」も捨てがたい。というのはキキョウは東北に多く、その根は貴重な生薬だったからである。そして言葉の含みも遜色ない。

「長雨蓄積型」の土砂崩れ

梅雨出水いま大雨雲の下に居る

 

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熱海の伊豆山で土石流が発生した。

テレビで見ると、土石と言っても石の少ない泥流が沢に沿って流れ下った感じで、その速さと激しさに息をのんだ。一瞬に多くの人の命、生活が失われた。数年前の広島の災害を思い出す。まさに蛇抜け、とか山津波とかの言葉が頭に浮かんでくる。そして今まだ、土砂災害の警報が継続している。

 

参考:https://zukunashitosan0420.hatenablog.com/entry/64655027

 

今回新たに耳にしたのが、「長雨蓄積型」という言葉。

当地では今回、大雨だという印象が少なかった。ネットで時間雨量や近くの巴川の水位を見たりしていると、確か強くてせいぜい20㎜程度ではなかったか。水位も危険ラインまではいかなかった。ところが避難勧告が静岡市内の広範囲に出た、いつものように行政の「空振りを恐れず」かなと思った。

しかしこの災害である。

今回は短時間に集中して降る雨ではなく、長い時間降り続き、土の中に水分が蓄積される「長雨蓄積型」だといい、1時間に30ミリ以上のいわゆる「激しい雨」は観測されていません。という解説があった。熱海では、降り始めから土石流が発生する前の3日午前10時までの総雨量は389ミリと平年の7月・1か月の雨量の、1.5倍以上と記録的な大雨だったという。

 

私の家も、土砂崩れの危険地域になっているので、レベル4の避難勧告がでて幾分緊張したが、避難はしなかった。多分近隣で避難した人はいなかったと思われる。熱海や伊東などの別荘地は、急峻な斜面に何とか敷地を確保して建てられている家が多い。それを見ると、崩れたら大変なことになるな、とは思うが、本当にここが崩れるとは誰も思わない。私も自分の場所は、まさかこの程度では、とバイアスをかけて考える。

 

わかりにくい危険だ。だらだらと降られると警戒感が湧いてこない。特別警報とか、線状降雨帯、スーパー台風、バックウォーターとか災害の度に、新しい言葉が世間を騒がす。正直これまでにない災害の形に、高齢者はついていけない、対応できない。

コロナのリモートで熱海には人口移入が多いと聞いているが、再考する人も出るだろう。

どこに住むのが安全で幸せなのだろう?どこへ行っても災害が追いかけてくる。

covid-19(コビッドナインティーン)の備忘として

大勢の一人となりて肩を脱ぐcovid-19(コビッドナインティーン)接種会場

 

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ようやく1回目のワクチン接種をした。ここに至るまでなんと長い間待たされただろう。今回は少し憤懣を。

 

日本の接種は世界から遅れをとった。日本のワクチンが外国頼りであること、防疫自衛力が低い事実を痛感した。結局オリンピックにも間に合いそうもない。

初めはワクチンが少なかったが、そのうち一日100万回、7月中には高齢者を終わらせる、などと急にアクセルがかかった。が、現場は大変だ、接種が簡単に増やせるわけではない。静岡県は全国最低レベルの接種率だし、その中で静岡市がさらに率が低い。今回は、市の接種予約の受付体制が脆弱で、大勢の市民が泣かされた。行政の困難な状況は察するが、しかし余りのちぐはぐに、一体市は本気なのか?と不平が口に出た。

 

わたしは6月の初めに家人の予約を取ろうと一日半ほど、予約センターの電話、ネットに張り付いたが、ついに繋がらず諦めた。受付がパンクして、予約中止だと知ったのは翌日の新聞で、市の広報は全く伝わってこない。同報無線を使えばいいのにと思う。加えて、肝心の予約ネット画面が極めて分かりにくく使い勝手が悪い。検索で止まったまま何の説明も出てこないので、首をかしげて不安になるだけ。市がシステムを本当にチェックしたのか疑問がわく。これはパンクしてやっと一部修正された。受付日時などは情報によってまちまち。 

さらに電話は回線が少ないため繋がらず、年寄は頼るものがなく、おろおろして市役所に詰めかけパニックになった。老人は電話しか使えないのは分かり切っていたことなのに。市は、ネットの効率に頼りにして電話をおろそかにしたと言わざるを得ない。

また重要なことだが、予約受付は市の予約センター一本で行う、という広報を、私は真に受けていたのだが、実は一部の開業医はどんどん予約を直接入れていた。こういう嘘、もしくは説明不足は、正直者は馬鹿を見ることになり、市のやり方への信頼を決定的に失わせた。

 6月後半、私の予約はかかりつけ医は一杯だったが、特設会場で取れ、ワクチン接種ができた。特設会場の運営はとてもしっかりしていた。スタッフが大量で、しかもよく訓練されていて、関係者の意気込みが伝わってきた。今後順調に推移することを期待する。

 

改めて、まだまだ高齢者には電話が大切だということを認識する。今回も、回線を何倍か何十倍かしていれば、それだけでも市民が不安に陥らずに済んだ。普段ネットをしている人でも、結局ネット予約ができずに市の窓口に出向いた、という人もいる。すべてがAIの世の中ではない、ということだ。そして迅速、丁寧な広報を再確認したいものだ。

 

(つまらない記事だが、コロナ社会の一コマを備忘として、残しておく。)

スモモと子規

すもも頬張って駆け出していけ雨の中

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スモモの季節になった。プラムとかソルダムとかいう名で売られているが、何れも日本の李(すもも)を外国で改良したものだという。この酸味が梅雨のうっとうしさを一新してくれるようで、舌に心地よい。

 

半世紀以上も前の信州のド田舎での話だが、モモと言うのはスモモと毛モモのことだった。

スモモは今日のプラムなどよりずっと青くて酢っぱかった。毛モモというのは、文字通りうっすら毛が生えていて果肉は硬くて、甘味はあまりなかった(ように記憶する)。

そのうちに水蜜桃が出てきた。栽培され始めたのは、この村では昭和30年代の後半だったのではないか?中学の時、友人Nの家に寄ると、水蜜桃の木があり一個もいで食べた。当時まだめずらしく、毛モモに比べく、甘くて柔らかく、しかも大きいので感激したことを思い出す。

ただし、虫が食っていて、虫と競合しないように食べる。当時はモモもスモモもほとんどが虫食いになった。「李下に冠を正さず」などと言うが、私のイメージとしては、立派な冠の上にあるのは、虫に食われて糞がはみ出しているようなスモモの映像である。

 

子規に

病間や桃食ひながら李画く

という句がある。多分画いたあと李も食っただろう。病床にあって、彼は画家の不折からもらった絵具で、丹念に植物や果物を画いた。

画くべき夏のくだ物何々ぞ

画き終へて昼寝も出来ぬ疲れかな

 

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子規は絵に没頭することで、痛みや暑さを一時忘れたのだろう。医者が、もう生きているが不思議と言ったほど病状は進んでいた。

国立国会図書館のデータを探すと、子規の「果物帖」があった。その中に多分その時描いたスモモの絵があったので、備忘でアップしておく。熟して赤く、美味そうに描けている。漱石が確かどこかで下手だと言っていたが、文人らしい味があると私は思う。

子規余命、あと二月もない。

 (不折の留守宅のスモモだと書いてある。不折は留学中だったか)