帰り花・・・子規と良寛と雑感

蜜すこし蝿を寄せたる帰り花

鉢に植えたヒメユウスゲが咲いた。なんと12月、大雪のこの時季にである。目に飛び込むような鮮やかなレモンイエローの花弁。花茎がほとんど伸びていないため、花は地面から突然咲き出している。転がっているように見える。葉は余りない。

これには驚いた。なんという異常さ。少し前に10月にカワヅザクラが満開になって驚いたが、またまた、である。花はもう翌日には萎れて情けなく小さく縮んでしまった。

 

「帰り花」という俳句の季語があるが、見ていてもそういう感慨がわいてこない。最近は「狂い咲き」だと感じてしまう。

花が時期を外れて咲くのはよくあること。詩人の心を動かすのだろう、芭蕉も蕪村も一茶も、句を残している。ちなみに「帰り花」を子規の俳句を松山市立の「子規記念博物館」のサイトからデータ検索してみると、17句ヒットする。

 

では、と別の季語の「狂い咲き」「狂い花」「二度咲き」を検索してみたが、出てこない。もしかしてこうした季語は新しいのかもしれない。蕪村や一茶にも見当たらないし、子規にも見当たらないということは、現代生まれの季語かもしれない。もちろんちょっと調べた範囲だけの見当だが・・・。

 

子規の句を検索するとこんな句が目にとまった。

復の卦や昔の妻の返り花   明治30年

「復の卦」は一陽来復、次第に春の暖かさが戻ってくるという吉の卦の意味だと、理解される。ということは、依然別れてしまった女との縁が戻り帰ってきそうな気配がする、という占いが出た、ということなのか。中年も過ぎてささやかに静かに花の咲くように。(地雷復の卦というのがあるそうで、意味は一陽来復に同じようだ。)

 

帰り花比丘の比丘尼をとふ日哉   明治26年

お互いに出家した者同士。世間の欲を離れて浄土を願うもの、とは言えそこは生身の人間。淡い思いを抱きながら、心の通う人のもとを訪ね会話を楽しむ冬の一日。あっという間に日は翳り、早々と帰る時間が迫ってくる。

 (国上山の良寛像)

この句は良寛と貞心尼の姿が思い浮かぶ。

私はほとんど知識はないのだが、手元の「良寛物語」(大山澄太)から拾うと。

貞心尼は30歳頃。長岡在の小さい堂守をしていた。そして良寛という歌も書も優れた奇僧のことを噂で知り、思い立って良寛を訪ねる。良寛は厳しい五合庵での生活に耐えられず、山を下りて長岡市島崎の信者の家に寄寓していた。時に70歳。二人は一度の面会ですっかり意気投合し貞心尼はしげく良寛を訪れるようになり歌を交わし合ったという。それは相聞歌そのものだ。

秋萩の花咲く頃を待ち遠み夏草わけてまたも来にけり  貞心尼

返し

秋萩の咲くを遠みと夏草の露をわけわけとひし君はも   良寛

 

良寛さんは74で亡くなり、貞心尼は二人の歌集「蓮の露」を残した、とのことだ。私は歌集を読んだことはない。晩年の実らぬ短く咲いた恋心、帰り花の季語にマッチしやしないか?

子規の句では訪ねるのが比丘の方なので、少し事情は違うような気もするが・・・。若い子規がどんな心情でよんだのか、聞くすべもない。

セイダカアワダチソウの昨今(キク科)

泡立草美し 瑞穂のど真ん中

セイダカアワダチソウの黄色い風景は、もう見慣れてしまって驚くこともなくなった。むしろこれが無かったら秋の風景が寂しいとさえ思われる。それはセイダカアワダチソウが、爆発的に繁茂した頃と比べて幾分数が減り、風景全体で見てもバランスが取れているからのように私には思える。

これが急速に拡がったころ、日本の野原は全部占領されてしまうんじゃないかと、みんなが心配した。アメリカ占領軍とかアメリカの物質文化と何かにダブって感じられもした。アレロパシーというほかの植物を殺してしまう物質を出している、という情報も、和を重んじる日本人にとってはいかにも異質で不気味に感じられたものだった。

 

先日近くの沼地を散歩すると、盛りを過ぎたセイダカアワダチソウが覆いかぶさるように茂っている。そして小さい羽虫たちが意外にたくさん集まってきている。

もう少ししてこれが枯れてくると、花は白い綿のようにふわふわになり、泡が立つ姿を見せる。そうして木枯らしが吹きはじめると吹雪のように激しく舞い上がり、草や木の枝や道路の縁石などあちこちに引っかかって溜まってまるで残雪のようにみえる。時をあわせてヨシやススキやガマの穂綿が舞ってくる。海ではサンゴやフグの大産卵が報道されるが、同様にこの時季の沼では植物の種が穂綿にのって大量に風に放たれる。いずれも命の祭り、大拡散だ。散歩するときは、眼に入らぬよう、息をして喉に入らぬよう気を使わないといけないほどだ。



一時アレルギーの原因などと悪者扱いされたが、それは誤解で真犯人はブタクサだった。またアレロパシー「その物質がだんだん土の中にたまって来て、今度は自分にも害になってきた。だから、セイダカアワダチソウは一時のピークを過ぎて減ってきた」と言われているらしい。(田中修 「雑草の話」中公新書ただしこの本も2007年発行なので現在はどうなのか分からない。そしてアレロパシー物質を出すのはセイダカアワダチソウの特権でもなんでもなく、多くの植物は多かれ少なかれそうした物質を出しているのだという。コロナのパンデミックと同じでしっかり敵の正体を見て正しく恐れなければならないようだ。

(まるで日本画のようだ)

ススキやヨシなどと対抗して激しい生存競争をしてきたアワダチソウだが、いま周りの風景をみると、そう極端な分布とはなっていない感じがする。今はお互いにうまく調整しているようにみえる。それはしばし美しくさえある。

ガザやウクライナを考えると、植物は人間よりも上手に住み分ける能力があるのかもしれない、と思えてくる。

オケラが咲いていた

この山に再来(く)ることありやオケラ咲く

(オケラ キク科 不機嫌なとっつきにくい花だ)

久しぶりの信州行き。長野市浅川の市営墓地にある義父の墓を訪ね、花を手向けてきた。コロナ自粛を経て10年ぶりにもなるだろうか。

墓地は善光寺から北に向かって2,3キロのところから300mほど上った山地にあり、途中善光寺平一面が見渡せる。ここへ来るようになって、もう半世紀はたってしまった。道路わきのサクラも老木になった。私も老化してきて次第に足が遠のいてきた。また何時来れるのだろうか?

晴れていれば飯綱山が背後に見えるのだが、この日は曇り。ときおり小雨も降り寒いほどだ。

 

墓地は山地を切り開いた場所なので、法面は松林で自然の植生が残っている。何か野草が咲いていないかどうか、と松林の中をのぞいてみた。

すると「オケラ」が灌木に紛れてあちこちに咲いていた。「オケラ」をみるのは、じつは初めてだ。山に普通に咲いている、と図鑑などにあるが、今暮らしている静岡の山で私は見かけることがない。

触ると、がちがち尖った葉が指に刺さった。不機嫌な花である。

 

例によって、宇都宮貞子さんの「秋の草木」を開いて見る。彼女は野草に関する民俗を丹念に書き残した人で、古典にも造詣が深く、地元の人々の話を方言そのまま活写した自然な文章は、彼女の人となりを偲ばせ暖かい。彼女のフィ-ルドは主に長野市周辺であり、とくにこの墓地のある、長野市浅川付近はその中心地である。

私はしばしばそんな彼女の目を自分の目にすこしダブらせながら、自然をみることがある。

「浅川では、「オケラは盆棚にゃ、痛いが上げるもんだ」という。」

と記して、戸隠でもアワバナ(オミナエシ)とキキョウとオケラの三花を盆花としていることが書いてある。山野に沢山咲いていたのだろう。

林の中には、黄色い小さな花も咲いていた。アキノキリンソウだろうか。急激に秋が深まる。

曼殊沙華 赤と白

曼殊沙華白く咲かせて色懺悔

人差し指ほどの茎が伸びてきたなと思っていたら、すぐに花が満開になった。彼岸花の名のとおり、暦通りにやって来てくれるのが、うれしい。

暦の名前と言えば、セツブンソウ、半夏生、八朔などがすぐ思いつくが、最近花の時季が乱れ始めているのが気がかりだ。

 

庭に咲いた眼が届かないあたりのを摘んできて玄関に挿しておく。複雑な花弁が絡んで離すのが厄介だ。赤花は庭では暗く感じるので、植えるのは白花にしている。赤はあまりの艶やかさのためか何か魔性を感じさせるのだろう。

われにつきゐしサタン離れぬ曼殊沙華  杉田久女

 

でも、白にはそうしたデーモニッシュな印象は少なく、庭にいても心地よい。

 

曼殊沙華共産党の旗のもと

球根がどんどん増えて、ほっておくとまわり中球根だらけになる。畑の斜面も赤一色で、集団で主張してくる。50年ほど前のメーデーの行進風景を思い出す。

宇都宮貞子さんは「秋の草木」(新潮文庫)の「ひがんばな」で、「私は彼岸花ほど立派な花はあるだろうかと思っている」。「これこそ菩薩の宝髻(ほうけい)をかざるに最適だ」と褒めちぎっている。そういう印象ももちろんあるのだが。

キツネノカミソリ ヒガンバナ科

宇都宮貞子さんは、また、阪田のYさんのヒガンバナの赤い花枯れて、あと細おい葉あが出るんやが、その葉あをキツネノカミソリいうねん。花はキツネノカミソリやあらへん」というのを、全くその通りだ、と書いている。

いまの分類ではキツネノカミソリは、べつの種の名前になっている。ひがんばな自体は、有史前外来種なので日本での歴史は長いのだが、文献にはあまり出てこない。ひがんばなも曼殊沙華も名前が賢しいので、だいぶ後期になって流布した名前に思われる。それ以前は各地で様々な名でよばれたはずで、キツネノカミソリ、もその一つだったかもしれない。

現在のキツネノカミソリは花期は彼岸花より早い。これもきれいな花だが、妖しさはない。今年もまた、竜爪山のキツネノカミソリをみにいくことができなかった。今年は余りにも暑かった。彼岸花で我慢しておこう。

 

曼殊沙華すっと素足のままで立ち

草の花 

雑草も今朝は秋草庭一面

 

庭の植物は今年の異常な暑さには参ったようで、いろんな優しい花は溶けてしまっている。雑草たちは、手入れをされないので伸び放題。雑草なのだが、この季節になると、やさしい慎ましい花をつけ、愛しさが増すので、「雑草」から「秋草」に昇格する。

多くは小さい花で、神は細部に宿る、という言葉を思い出させる。

 

ツユクサ (ツユクサ科)

だれもが知る花。半日ほどで花をたたむ。受粉しない場合は、雌しべと雄しべをからめて自家受粉するのだという。

 

ヒメジソ (シソ科)

ミヤマトウバナなのか、そのほかのミントの種類なのか、同定が難しくはっきりしないので、一応ヒメジソとしておく。

 

キツネノマゴ (キツネノマゴ科)

庭に生えて困る、が、一株二株は取り残しておいて、この小さな花を楽しむことにしている。

 

ウリクサ (アゼナ科)

小さい花でカメラでもピント合わせが難しい。遠慮するように地面を張って茎を少し立ち上げて花をつけるが、これも数が少ない方が可愛いので、取ったり取らなかったりして調整している。

 

アカマンマ =イヌタデ (タデ科

どこにでもあるイヌタデだが、この時季は美しい。特に集まって咲いているとなお美しい。丸鉢で咲かせたいのだが、手入れが悪くみんな外に逃げ出してしまう。

 

ツルボ (キジカクシ科)

土手にたくさん出てくる。春に出た葉は夏に枯れ、花の時季に再び新しい葉を伸ばす。

 

炎天の浜を歩く

炎天や漁船も雲もただ白し

あんまりにも暑いので、意地になって、海を見にいった。

焼津の石津浜である。近くには小川漁港がある。

この付近の浜は小泉八雲が夏になると家族を連れて遊びに来ていた場所で、「乙吉だるま」という短編も残している。浜は松林の先に整備された広い芝生広場があり、その先に小石の浜、そうして駿河湾の洋上に富士山の端麗な姿を見ることができる。銭湯の絵のようだが、いい風景なので私の好きな場所の一つになっている。今日は霊峰は雲に隠れていた。

(ハマゴウ(シソ科)の残花 :天気がよければ富士山はこの洋上に見える)

浜の植物を見て歩くと、もうハマゴウはほぼ花は終わりで、丸い実をたくさんつけていた。一月前なら浜が青紫に見えるほど群生して根を深く砂地に伸ばしている。ハマボウフウも枯れたような葉しか見えなかった。

それにしても浜は暑い。汗が噴き出してくる。釣り人の姿も見られない。車内の温度計は40度を示した。

 

ケカモノハシ(イネ科)

麦のような穂に盛んに花をつけている。浜ではよく見られるあまり注意をひかない草。

 

アメリネナシカズラヒルガオ科)

これは北アメリカから来た寄生植物で、要注意外来種に指定されている。これでいて小さいが、しっかり花も咲いている。べったりと這ってほかの植物にまといつくので、6畳一間ほどの面積が、こんな黄色に異常に見える。

 

 

オオフタバムグラ(アカネ科) 浜の入口付近に群生している。小さい花は可愛いが、この暑さ、なかなかいいものが撮れない。

 

しかし、さすがに暑かった。

蓮見には暑すぎて

白蓮も悟りて散るやしどけなく

近くの沼に蓮がたくさん咲いている。

早朝に見に行こうと考えていたら、今日ももう10時を回ってしまった。気温もどんどん上がり30度に近い。ハスの花見は朝早くというのが相場であり、午後になると花は閉じ、数日開閉を繰り返して散ってしまうようだ。

でも、出かけてみた。

花はたくさん咲いていた。しかし陽射しは容赦なく、葉の上の露など望むべくもなくカラカラ、花びらもほとんどが伸び切って風にべろべろしている。今年は高温のため花のつきが悪いという噂を聞いているが、私には分からない。

やっぱりこんな時間ではもう遅すぎたな、と思いつつ2,3の花に焦点を当ててシャッターを切った。

例年なら大勢の親子連れが沼の縁に蓮見に集まっている光景が見られるのだが、この暑さ。花見は私一人という閑散状態である。炎昼に俳句をひねる気にもならず、汗をぬぐいつつそそくさと退散。

蓮見という風流も命がけな時代となった。一昔前には、暑さの中にも穏やかな風があり、晩夏らしい季節の移ろいを感じることができたのだが・・・。俳句の季語も通用しなくなりそうだ。

帰宅して子規の蓮の句をデータで拾うと、100句くらいはありそうだ。だが全体に案外平凡な句が多い気がする。拾い書きすると、

涼しさや蛙も蓮にゆられつゝ(明治25年

行水をすてる小池や蓮の花(26年)

朝風やぱくりぱくりと蓮開く(29年) これらの句は一茶の面影が感じられる。

 

病僧を扶けまゐらす蓮見哉(31年)

これは自分のことだろうか。子規の頭は僧形だった。

 

剪らんとす白蓮に手の届かざる(33年)

子規が自分の後生について仏教的に救いを求めた句とは思わない。そういうものを信じなかった人だったから。もう寝たきりの頃だから、よく歩いた不忍池でも思いだしての句だろうか。

 

昼中の堂静かなり蓮の花(27年) こうした涼しい夏が、なくなってしまった。

 

 

一茶の蓮の句については、以前書いたことがあった。そこでも一茶節がさく裂していた。(参考:

zukunashitosan0420.hatenablog.com