ドボルザークの歌劇「ルサルカ」水の精とは?ー4

水の精は、つねに美しい乙女だというわけではない。
現に、ルサルカについては
「ロシアや東ヨーロッパの民間伝承に登場する、淡水に住む精霊。ロシア南部では彼女たちは長い金髪を持つ美しい乙女として描かれ、透き通った白い服をまとっていることもある。
しかし北方地域では、ルサールカは緑色の髪に青白い顔をした老婆として描かれることが多く、恐ろしい緑色の目をぎらつかせ、巨大な乳房をたらしているとされる。」*4
 
こういう姿で、男を誘惑し水中に引きずり込むと解説されている。
セイレーンやマーメイドなど危険な水の精霊も思い浮かぶし、浪漫主義のハイネのローレライ「なじかは知らねど心わびて・・・」はある年代以上の方なら誰もすぐに口の端をついて出てくるだろう。
日本のカッパも似たようなものだが、残念ながらこういう色気がない。
 
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イソベル・グロウグ 「誘惑者の接吻」
 蛇身の精霊はレイミアという魔女
 
さて、ドボルザークには、「水の精」というタイトルのやはりチェコの民話を基にした交響詩があることを知り、You tubeで探して聴いてみた。
 
(ちなみに、交響詩はその背後にある物語がわからないと面白さは半減なのが欠点だが、次のウェブは、音楽にストーリ展開をのせていて、非常に参考になる。面白い試みで感心した。https://www.youtube.com/watch?v=_bcsja2Fcl4 )
 
この交響詩のタイトルは「Vodnik」(ヴォドニク)であり、「ルサルカ」にも登場した水の精たちのいわば親分格でオペラでもきわめて重要な役どころであるのだが、英語版では「The water goblin」となっていて、邦訳でも「水の魔物」となっているものもある。
すなわち精といっても人に危害を与える妖怪である。
 
物語も残酷で、水の主のヴォドニクが娘を水に引きずり込んで妻とし子までなしたが、その扱いは冷酷だった。あるとき娘は、母に会い別れを告げたいと、拒否するヴォドニクを何とか説得し、晩禱の鐘がなる前にもどるという約束で家にもどり、母と再会する。陽が傾き約束の時間になるが母は娘を帰さない。怒ったヴォドニクは嵐を起こし家の戸を叩き、最後に何か投げつけて消える。
娘が恐る恐る戸をあけてみると、そこには頭と体がちぎれた、子供の無残な姿・・・。というもの。
 
こうした奇怪残酷さが、チェコ民話の水の精の一面であることを知れば、オペラ「ルサルカ」にはオンデーヌや人魚姫の乙女らしい明るさや躍動感が乏しく、舞台全体に暗い陰湿なものが漂っていたことも合点できるのである。
 
交響詩「水の精」をきくと、おそらくヴォドニクを表していると思われるテーマは、フルートで演奏され、意外に明るいリズミカルなものであった。そこから察するにヴォドニクは、蛇的ではなくむしろ日本のカッパに近いイメージなのかもしれない。
 
さらに探すと「水の精」というタイトルの音楽はいろいろとある。今回私は手に入りやすい次の2曲を聴いてみた。
ラヴェルの「夜のガスパール」(1908年)第2曲に「オンディーヌ」がある。
明るいアルペジオでありこれはかわいい軽快な妖精を思い浮かべる。
ドヴィッシーの前奏曲集第2巻(1911~13年)にも「オンディーヌ」がある。この曲はラヴェルよりももっと不規則で不吉な情念を内包している。これを聴くとラヴェルの美しさは、理知的、構成的であり水の精のディオニゾス的な面の表現が不十分に思えてくる。
いずれにせよ19世紀からこうした水のテーマが、いかに芸術家の創造力をかきたててきたかが伺える。
おそらく作曲家たちは曲想を練りながら、自分もこのような水の精に誘惑されてみたい、とありえぬ妄想が胸をよぎったのではなかろうか。水のきらめきのような美しい曲を聴いていると、私の胸にそんな思いがわいてくる。


 
 (注)
*  *5 「世界の妖精・妖怪事典」(キャロル・ローズ著 原書房) ルサールカの項