春の巫女

白足袋の舞殿に軽し春の巫女
 
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(清沢神楽 小学生の順の舞い)

静岡浅間神社で催された「大神楽祭」をみてきた。

神楽といえば、冬の神事で古いお堂の中というイメージだが、梅の香の漂うような春の日差しの中で乙女が色鮮やかな袂を振って舞うと、本当に晴れがましく爽やかだった。
しかもその演技は、レベルがとても高いので思わずみいってしまうほど。相当練習も重ねているのだろう。田舎の素人さんの芸だといって侮ることはできない。

ましてこの神社は、観阿弥が人生最後の舞を舞ったとも伝えられており、舞殿も江戸後期建造で国指定重要文化財となっているというこの上ない設定である。演者もさぞかし気持がよかったことだろう。
 
この日、静岡市の山間地から井川神楽保存会、清沢神楽保存会、梅が島新田神楽保存会の三つの団体が出演してお神楽を舞ったほか、太鼓や木遣り、お囃子なども交えて、朝10時半から夕方6時までという濃密な舞台であったが、私は途中でバテテ帰宅した。
 
あまり知られていないが、静岡県の大井川や安倍川、瀬戸川の上流域にはたくさんの神楽が伝承されている。松田香代子さん(*1)の資料によれば、56ヶ所に確認され現に行われているものは30ヶ所あるという。大方は江戸時代中期から末期のもので、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に指定されているが、過疎化で芸能の伝承は厳しい状態だという。この日の観客は大勢いたが、やはり若者は少ない。
 
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(清沢神楽 鬼の舞)

プログラムは、面なしの舞と面付けの舞とに区別されていた。面無しの舞とは、神を招き、供応し、神を鎮める人間の側の所作であり、逆に面付けの舞は、面をつけたものが神そのものであるというふうな説明がされた。なるほどなと思った。
 
けれど、ちょっと考えると疑問がわいてくる。
面無しの舞が人間の所作だといっても、同じ音曲でぐるぐる回りを繰り返すのは、そもそもは舞う人(巫女など)に神を降ろすための動作であり、結果、憑依した巫女などが神がかりになって舞い、場合によっては神託をしたのがもともとの姿なのであろう。とすると面無しの舞い人が神になるのであるから、前述の区分は適当ではない、というふうな疑問である。神人が渾然一体となるのが祭りの本来の姿なのだったろうから。
 
けれど、今見る神楽は儀式であって芸能としても洗練されたもので、神が憑依するという風なことは、ほとんど皆無なのだろう。神が不在の祭りになってしまったのだ。とすればその区分も、芸能の形態の分類としてはありうるものなのかな、などと意味もないことを頭によぎらせながら、私は舞台を見ていたのだった。
 
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(梅が島新田神楽 チキドン)

舞殿の演技を見るのは、高さも距離もあるので、やはり現場で見るのとは臨場感が違う。当日は、色っぽい演目が組まれていないので、粗野なおかしみ、みたいなものはわずかしか味わえなかったが、それは今後また現地で楽しむことを期待しておこう。