藻の花と三好達治の詩

藻の花やこの沼時おり人を呑む
 
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オオカナダモの花)

昔の沼や池は無防備だったから、時おり溺死事故があった。
郷里の集落の裏山に農業用の大きなため池があって、私が中学になったころだったか、そこでも人がおぼれ死んだことがあり、村の人は仕事をやめて駆けつけ、総出で舟を出し竿を差して捜索した。泳いでいて、ヒルムシロが足に絡んだのではないか、などと憶測も飛び交うなかで村全体に騒然とした空気が漂っていたことを思い出す。
 
実は後年、私もその池で泳ぎを覚えたのだった。私は水草のない場所を選び、溺れないようにオートバイのチュウブを紐で体とつなぎ、独りで慎重に弁天島との間を行き来した。池の表層の水はあったかいのだが、立ち泳ぎすると足の先が触れる水は、びっくりするほど冷たい。「心臓麻痺」が偽りなく不安であった。
 
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(件の池 遠くは北信五岳の1つ斑尾山

身近な不慮の死は、情報が少ない社会だったせいもあり、いつまでも人々の記憶に残った。一つの死が個人の記憶に残り、やがて里の人の伝説になるような時代が、つい先日まであったことを思う。

日常は平穏な風景にみえても、一皮むくと池や沼はこうした怖い伝説を持つ異界だった。
だから、私にとって三好達治の「湖水」という詩は肌になじむものだった。
三好の詩集「測量船」は端正な叙情で人気が高かったが、発行が昭和5年だというから、もう約90年前のもの。名品ぞろいの中で「湖水」はあまり有名な詩とは言えない。
この詩に詠われるリアルなようで漠とした不安・不確かさは何なのか、それは震える詩人の心であろうし、社会を覆う不安だったかもしれないが、そのイメージの一端はわかるような気がするのだ。

湖水

この湖水で人が死んだのだ
それであんなにたくさん舟が出てゐるのだ
 
葦と藻草の どこに死骸はかくれてしまったのか
それを見出した合図の笛はまだ鳴らない
 
風が吹いて 水を切る艪の音櫂の音
風が吹いて 草の根や蟹の匂ひがする
 
ああ誰かがそれを知ってゐるのか
この湖水で人が死んだのだと
 
誰かがほんとに知ってゐるのか
もうこんなに夜が来てしまったのに