島原の原城の「ずっきゃんきゃん」

背伸びしてパライソ見えたか夏の海
 
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(長崎の古賀人形  ずっきゃんきゃん)

数年前に長崎の浦上天主堂大浦天主堂などを見学して、そこから島原、天草へ走ったことがあり、途中で島原の乱で舞台となった原城に立ち寄ったことを思い出す。

道案内もろくにない畑の中の農道を進むと、小高い場所に出て、その詰りが城跡だった。登ってみると思いのほか広い広場となっていて、木立の間には天草四郎の墓碑などがある程度。観光客もいない。広場の先は断崖となって海に落ち込んでいて、有明海を広々と見渡すことができた。

1638年、農民の一揆群はここに立て籠もり最後の決戦をして、老若男女3万7千人が皆殺しになったのだという。いわば殺戮の墓場である。子供たちも教えを信じ、嬉々として死んでいった、とも言われている。
 
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(わかりにくいが、左が「ずっきゃんきゃん」の石塔)

バテレンの服装をして海のかなたを向いている石像などもみられたなかに、私の記憶に引っかかった石塔があった。摩滅していて古いものにみえたが、人かなにかが子供を肩車している姿であった。

実は長崎の駅前物産館で、古賀人形というのが目について私は一つ買い求めていた。
それが写真の「ずっきゃんきゃん」である。「ずっきゃんきゃん」とは、長崎方言で肩車、という意味だという。
古賀人形は長崎の伝統ある土人形で、店の栞によれば文禄元年創業というから西暦1593年のことである。ちなみにいわゆる26聖人の殉教は1597年のことであった。
「ずっきゃんきゃん」は創業当初からのアイテムの1つにはいっていて、人と猿二種の型があるようで、いわば定番商品だったといえそうだ。

なぜこんな石像が、この残虐の城跡に置かれていたのだろう。そんな疑問が私の頭にずっと残っていた。
当て推量をしてみると、
後世の篤志家が、「ずっきゃんきゃん」の土人形からヒントを得て、やさしい親子像として慰霊のため建立したのではないだろうか。立て籠もった農民の中には親子がたくさんいたから。私はそう理解しておこう。
肩車の親子像は、殺戮の現場に背を向け、遠い海のかなたを二人で背伸びしてみている。
「水平線のあの先が、パライソだよ」
と、言っているような、そんな感じなのであった。

(はやりの世界遺産だが、凡庸なテーマパークのような観光地化をしてほしくないものだ)
 
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(海のかなたを見ているバテレン服の石像)