石の夢想―3 (小夜の中山夜泣石)

亀は鳴かず小夜の中山夜泣石
 
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(峠にある久延寺の夜泣石

亀は鳴かないのだが、不思議にも俳句の世界では鳴くようであり、春の季語となっている。
しかし、かつて東海道の難所、小夜の中山では夜になると、石が泣いたのだという。
身重の女が、このあたりで強盗に襲われ命を奪われたが、赤子の代わりに石が泣いて、それに気づいた寺の住職が赤子を助けだし、水あめで育てた、という言い伝えがあった。夜泣石伝説といわれ、いろいろなバージョンが残されている。
 
小夜の中山は、鈴鹿、箱根と並ぶ街道の難所の一つで、西行
としたけてまた越ゆべしと思いきや命なりけり小夜の中山
の歌が余りに有名だが、峠道は今ではハイキングの絶好のコースとなっていて、夜泣石も大切な観光資源である。
 
先日少し遠まわりをしてこの旧道を走ってきた。
写真の夜泣石は、久延寺に置かれているものだが、じつはこれは本物ではないとのこと。本物は国道1号のトンネルの近くにあるのだが、私はそこに行くのが億劫なので、今回はこれで良しとしたのだった。

観光案内書には、夜泣石明治14年に東京での勧業博覧会に出展された、と書かれている。「たかが石を」と微笑ましいというか、苦笑いしそうな気分になる。現代人の感覚にあわせれば、「月の石」の展示と同じようなインパクトがあったのだろうか。
 
それほど街道の名物だったので、浮世絵にも描かれている。一番知られているのは、広重の保永堂版の「日坂」で、急な坂道の下、路上の真ん中に石が鎮座している。広重は「行書東海道」「隷書東海道」にもこの石を描いている。こういう絵がまた、石を有名にしたのだろう。
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(広重の保永堂版 日坂 )

歌川国貞の「日坂の図」は1836年ころの作で、美人画の背景に広重の保永堂をそっくり借用している。広重からまだ数年しか経ていない。著作権がなかった時代でもいささかやりすぎの感もある。
 
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(国貞の 日坂の図)

大正4年に、横山大観、下村観山、今村紫紅小杉未醒東海道を旅をして制作した絵巻を、私は、20年ほど前に静岡県立美術館で見たことがある。今その図版を見てみると、極めて小さくてはっきりしないが、夜泣石が描かれていて面白い。
この付近は今では一面の茶畑だが、お茶の畑が全く描かれていないのが、不思議なくらいだ。まだ茶畑が少なかったということだろうか。
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 (「東海道五十三次合作絵巻」部分 中央付近に石と人物二人が見える)

参考: 「世界名画全集 別冊 広重 東海道五十三次」 平凡社 昭和35年発行 (古いね!)
   : 「描かれた東海道」 2001年 静岡県立美術館