蜘蛛の糸は一本

蜘蛛の巣は見えねど顔に糸わなわな
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ずいぶん細長い昆虫がいるなあ、ナナフシの仲間かな、と思っていたら実はこれは蜘蛛だった。オナガクモという種類で、胴(尾)が体の大半を占めている。手足を体に沿って伸ばしていると、枯れた小枝の破片にしか見えない。
ユニークな蜘蛛で、まず、糸はたった一本しか張らない。そして食べるものは、同じ蜘蛛である。蜘蛛は他の蜘蛛の糸を使って移動するものが沢山いて、たまたまこの一本の糸を渡って移動してくるものを、捕らえて食べるのだということだ。
気をつけていたら、その瞬間にであった。(写真)

一本の蜘蛛の糸といえば、芥川龍之介。お釈迦様は、地獄にいるカンダタが生前蜘蛛を助けた(殺さなかった)ことで、カンダタを救おうとひと筋の銀色の糸をおろすのだが・・・。誰もが知る短編である。
ひと筋の、ということから想像をめぐらせば、この蜘蛛はオナガグモかもしれない。それにしても極楽でも蜘蛛は他の虫を食べる殺生をしているのだろうか?(意味のない想像)

ある人が、「たった一匹の虫の命を助けたことが、お釈迦様が救い出すほどの善行なのかね」と、首をかしげた。
ブログに再三登場していただく、 生物学者丘浅次郎氏は、大正5年に「生物学的人生観」を著しているが、命の尊さについて次のように書いている。
まず、個体として命はそれぞれにとってかけがいのないものだが、種族の生命という点からみるとそうではないとして、ものは生産コストが価値を決める規則どおり、
「命の値もこの規則にしたごうて、高いのと安いのとがあり、概していうと個体の命の尊さは、個体を完成するまでに要する保護教育の量に比例する」としている。すなわち無数の子を生むものは個体の命の価値はほとんどゼロに近く、途中で失われる命の損失は、種族維持の予算にあらかじめ組み込まれているのである。それに対して人間仲間の命は他と比較にならないくらい保護教育費用がかかり、結果尊ばれる。
「人間はつねに命を非常に尊いものとして取り扱う癖がついているゆえ、他の生物の命もすべて尊いものの如く思い、虫一匹の命を助けることをもひじょうに善い事のごとくに誉め立てるが、実際に調べてみると、種類によっては命の価のほとんど零にちかいものがいくらもある。
「インドの宗教のごとくに生物の命をいっさい取らぬことを善の一部とみなして、蚊でも蚤でも殺すことを躊躇するのは、生物の命をすべて尊きもののごとくに誤解した結果で、じつはなんにもならぬ遠慮である。」
(第十八章教育)

丘先生に、お釈迦様と生命論をたたかわせていただきたいものだ。