杣道や頭上に香るミヤマユリ
山道を走っていたら、白く大きいヤマユリがあちこちに見られた。花が重いのでみな傾いて斜面から乗り出すように咲いている。いまはヤマユリの最盛期のようで、目の保養になった。
それにしても豪華な花で、草花としては最大のものの一つではないだろうか。これをプラントハンターであるシーボルトがヨーロッパに持ちかえって大儲けし、やがてカサブランカのような洋ユリに改良されていくのはよく知られた事実である。
ユリといえば思い起こされる万葉集の次の歌は、野趣も情愛も深い。
筑波嶺の さ百合(ゆる)の花の 夜床(ゆとこ)にも 愛(かな)しけ妹そ 昼も愛しけ(大舎人千文(おおとねりちふみ):巻20 4369)
(筑波山のさ百合の花の夜床、そこでもいとしい妻は、昼もいとしいよ。)(中西進)
大舎人千文さんは、那賀郡(いまの茨城県の久慈郡南西部)の人で鹿島神社に祈願して天皇の軍に加わった(防人か)と記されている。健康そうな青年が思い浮ぶ。
さらに古くは、古事記にヤマユリが出ている、という情報を得て、早速本を取り出してみた。神武天皇の条に、イハレビコ(神武天皇)が、イスケヨリヒメという美人を妻とする件がある。その注釈にユリについて書いている。
「ここにそのイスケヨリヒメの家、狭井河の上にありき。天皇そのイスケヨリヒメの許に幸行して一宿御寝し坐しき。
その河の辺に山ゆり草多にありき。かれ、その山ゆり草の名を取りて、佐韋河と号けき。山ゆりの草の本の名は佐韋と云いき。」
これによればヤマユリが、ヤマト近在ではもともと「サイ」と呼ばれているという。
狭井(さい)川は、現在も奈良県桜井市の大神神社の近くにあり、私も以前、山辺の道を歩いた折に小さな看板を見つけたことがあった。小さな流れなので、拍子抜けした記憶がある。
(川、というほどのものでもない、普通は見落としそうだ)
直ぐ近くに狭井神社があり、この社は大神神社の摂社で病気平癒の神として信仰されており、神聖な霊水が湧き出ていて誰でもいただける。神社の花鎮祭りでは、現在も特殊神饌として、薬草の忍冬(すいかずら)と百合根が供えられるのだという。古代からユリに関係の深い社である。
またこの境内から三輪山に登ることができる。三輪山は神聖な禁制の山だが、ここで登録しタスキをかけて、ここからのみ登ることが許されている。私も登ったが、思いのほかきつく途中で何度も息を整えた。山上の磐座はあまり神さびた雰囲気はなかった記憶がある。冬だったのでユリは見ることがなかった。
(この鳥居から白タスキをかけて登る、私は観光だったので、こんなかっこう)
また山辺の道には番号が振られた万葉の句碑が随所に眼に入るのだが、狭井川の近くには50番のものがあった。文字はなかなか読めないが調べると、こう書いていあるらしい。
狭井河よ雲立ち渡り畝傍山 木の葉騒ぎぬ風吹かむとす
古事記・伊須気余理比売(いすけよりひめ)
この歌は、狭井川の方から雲が立ち渡り、畝傍山では木の葉がざわめいている。大風が吹き出そうとしている・・・というほどの意味だという。
これは先ほどの古事記の続きの場面であり、神武天皇の没後に、神武の兄タギシミミ命がイスケヨリヒメに言い寄り、さらに彼女が産んだ三皇子を殺そうとする。この歌は、この謀反を暗に知らせた歌であり、それを知った三皇子はタギシミミを打ち取る、という展開になっている。とてもヤマユリの香を楽しむような雰囲気ではなさそうだ。
「さい」というユリの古語から話が飛躍してしまった。
今わが庭にはオニユリが幾十となく咲いている。晩夏になれば鉄砲ユリが咲き出すだろう、いずれも自然に生えたものである。牧野博士の言葉通り、日本は良いユリを持ったものだ、万歳万歳、である。