阿波の一の宮「大麻比古神社」とは

所在地  徳島県鳴門市大麻町坂東字広塚13
ご祭神  大麻比古大神 猿田彦大神
参拝日  平成28年12月

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お遍路ブームもあるので、四国では寺院が繁栄する一方神社が寂しいのではないか、と思いつつ阿波一の宮に向かった。というのもここには四国霊場八十八か所の第1番札所である霊山寺があるからである。案にたがわずバスがたくさん来ていて、白装束のお遍路さんが団体でたむろしていて賑わしい。寺は山門も立派だし境内にはいると木組みの派手な多宝塔も目を奪うのだが、やや雑然・猥雑として私に「宗教心」はわいてこない。

霊山寺は、神仏分離以前は大麻比古神社別当であったので、寺も神社も渾然一体であったのだろう。したがって現在もお遍路さんは道中の安全祈願に大麻比古神社を詣でる風習があるのだと聞いたが、その後私が白装束にあうことはなかった。
 
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霊山寺を後に一の宮に向かって歩くと、途中高松自動車道をくぐり約1.3kmの距離だった。赤鳥居からは楠の並木が延々と続いており、霊山寺とは打って変わって静寂さが漂う。自然に心がすがすがしさに満ちてくる。(かつては松並木であったのか、案内解説には松並木と書かれているものがある。現在はクスノキだと思われる。)
しかし思いのほか神社は賑わいを見せていた。七五三参りに来ている家族の姿も多くほほえましい。神社も決してお遍路に負けていない。
 
まず正面にある大きなクスノキが目を引く。大注連縄がめぐらされた御神木は樹齢千年といわれ境内に森厳な雰囲気をかもしている。本殿は流造で千木、鰹木をのせ社殿全体に銅板葺である。明治13年の造営でありとくに特徴はない。しかし周囲の森は深く、背後に聳える大麻山は奥の宮がます御神体であり、社全体が木々に埋もれている感じなのである。
 
御祭神は、大麻比古大神と猿田彦大神
由緒書きによると
神武天皇の御代に天太玉命大麻比古大神)の子孫である天富命が勅命により肥沃の地を求めて全国各地を巡り、阿波国に到り麻や楮を育て麻布・木綿を作り、殖産興業の基を築き、当国の国利民福を進めた。太祖である天太玉命大麻比古大神)を阿波国の守護神としてこの地にお祀りした。」としている。
 
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先に、安房の国の一の宮で触れたことがあるが、安房神社の祭神は、天太玉命(アメノフトタマノミコト)であった。
古語拾遺の「天岩戸」神話の中では、アメノフトタマは諸々の神を指揮して、麻や穀(かぢ)から繊維をとり、榊に玉や鏡、青白のニキテ(和幣)をつけ、これをささげ持ち、アマテラスが見に出てくるように祈り、うまく岩窟から引き出すことに成功している。主役かと思われるほどの大活躍に書かれている。それもそのはずで、フトタマは「古語拾遺」著者の斎部(忌部)氏の祖神にあたるのである。したがって阿波も安房も、同じ神を同じ氏族が奉戴していた、ということになる。
しかし一方、主祭神猿田彦とする説、天日鷲命とする説などもあるのだが、肝心の「大麻比古」とはなんであろう。「大麻」は麻の神格化した
表現であろうし、背後に大麻山も聳え、かつては社殿がその山顛にあったという資料もあるとのことだ。大林太良氏は、「大麻彦と称せし国津神なるべし」とする「神社覈録」(注1)の記述を引き合いにして、社名からみてももっともと思われる。と述べている。
とすると、在来の国津神であった大麻山の神を、中央から来た忌部氏が祀り、やがて忌部氏の勢力の衰えとともに、神の性格が不確かになり猿田彦との習合が起こったのだろうと思われる。
 
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この近辺は、麻の産地であったのだろうか。
私は、麻は大麻取締法により植栽が禁じられている麻薬の植物だという程度の知識しかないのだが、それはとんでもない間違いのようだ。後日改めて麻について整理してみようと思うが、ここで若干の例を挙げておく。
 
1 まず麻はきわめて重要な農作物であった。
戦国時代に木綿の栽培が全国に広まるまでは、高級品の絹を除けば、麻が主要な繊維原料であり、糸、縄、網、布、衣服などに一般に広く使われていたし、木綿の普及後も、麻繊維の強度が重宝されて・・・第二次世界大戦以前は国家により大麻の栽培・生産が奨励されていた。(参考:Wikipedia
 
2 麻は神道の重要なアイテムだったこと。
横綱の綱、神社の注連縄、神社の鈴を鳴らす鈴紐(鈴緒)、麻の御幣、など神聖なものに使われてきた。また伊勢神宮のいわゆるお札は、「神宮大麻」(じんぐうたいま)と呼ぶ。
 
3 天皇即位の大嘗祭に、阿波の忌部氏の麁服(あらたえ:麻布)を使用する。
美馬市に存在する三木氏は、阿波忌部氏の直系としての忌部(いんべ)氏で、忌部姓がその本姓です。上古以来歴代の践祚大嘗祭に、御衣御殿人 (みぞみあらかんど)として、麁服(あらたえ)を貢進して朝廷と深い繋がりを持っており、現在も28代目にあたる子孫が家を守っています。現在も天皇陛下が御即位後に初めて行う大嘗祭に「麁服(あらたえ)」を献上している。(徳島県美馬市の観光HPから)
 
4 麁服(あらたえ)というのは、麻の織物であり、皇室のこの儀式のために麻が植えられ、繊維がとられ、織られるのだという。
 
阿波忌部直系三木家第28代当主の三木信夫さんによると、

麁服(あらたえ)とは、阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)が、天皇陛下が即位後、初めて行う践祚大嘗祭の時にのみ調製し・調進(供納)する「大麻の織物」を云います。
 麁服は、悠紀殿・主基殿の大嘗宮の儀で、天皇陛下が威霊を体得される為に神座に 神御衣(かむみそ)として祀るものです。
 当初御殿人は、直系の氏人達が卜定により選定指名して、麁服神服(あらたえかむみそ)を調製していましたが、既に鎌倉時代には御殿人の家筋は、三木家等に固定化されていました。

 
とのことで、また
アラタエは、反物であり、天皇陛下が威霊を体得されるため、アラタエを神御衣(かんみぞ)として祀るのです。と説明されている。

(参考:三木信夫氏講演「大嘗祭麁服(あらたえ)神事」 日本麻フェスティバル のWebより  これは践祚大嘗祭の様子や麻についての興味ある講演である)
イメージ 4社紋の「丸に麻の葉紋」

この例だけでも、麻がいかに重要なものだったかが知れるのだが、大麻比古神社には、麻についての記述が少ない。これは何故なのか。ひょっとすると忌部氏の祀る神社は別になるのかもしれない。麻殖(おえ)郡に忌部神社があり、また讃岐には善通寺市大麻町に大麻(おおさ)神社がある。これらの神社との関係はどうなのか。
能力を超えるので、私の一の宮詮索は、この辺でストップしておこう。
また神社裏に、第1次大戦時のドイツの捕虜兵士が造ったドイツ橋もあり面白いのだが、改めてアップすることとしよう。
 
(注1)
古社を考証した書物である。鈴鹿連胤著、全75巻。天保7年(1836年)に起稿され、明治3年(1870年)に完成した。