祭 神 熊野大神櫛御気野命(くまのおおかみくしみけぬのみこと)
参拝日 2017年5月
出雲の一の宮を2回に分けて記録する。
古代出雲というと、出雲とは実際はどんな国だったのか、国ゆずり神話はどういう意味か、オオナムチを大和政権が畏れたのはなぜか、荒神谷などの大量の青銅器は何を物語るのか?と、こうした難問ばかりが頭をよぎる。しかし諸説は入り乱れ、結局のところ何も分らずいらいらするのが落ちなのだが、むずかしいことは専門家に任せ、素人は楽しむ他あるまい。
熊野大社は意宇川の上流で、松江から15kmほど山に入ったのどかな狭い山谷に静に鎮座していた。参拝客はチラホラ。
当社は戦国時代に兵火で消失し、明治まで仮殿であったが、明治41年に造営され、昭和53年に修理造営されたとのことでまだ比較的新しい佇まいである。しかし参道の松の木は驚くほど太く歴史をの一端を感じさせる。社殿の注連縄は出雲大社と同様に太く立派で目を奪う。そして瑞垣の奥には本殿が3棟見えて、いずれも大社造のなかなか美しい社である。雰囲気は、そのあと参拝した佐太神社といくぶん似通った印象を与える。
さてご祭神は、社伝に依れば熊野大神櫛御気野命(くまのおおかみくしみけぬのみこと)である。ミケとは食料のことであるから穀物神である。イザナキの御子としているので、いわゆる天津神の系譜に当たる。またスサノヲ尊の別名だともいっている。
古代出雲国の中心は、県の東部であるこの意宇(おう)郡であった。この社は意宇郡を治めた意宇氏が祀ったものである。
出雲の国造はもともとこの意宇氏であり、熊野大社の祭主であった。ところが中央政権の支配がすすむにつれ意宇郡の支配権を失い、国造は西に移動し出雲地方の支配権を得、杵築の大社(出雲大社)の祭主となったのだという。それが今の千家国造の祖である。
しかし杵築の大社はオオナムチの神であり国津神である。天津神の子孫である出雲の国造からみれば下級である。そこで出雲大社の神主となった国造は、失地回復のため、なんと出雲大社の神をオオナムチからスサノヲにすり替えてしまうという策を打った。スサノヲは天津神なのである。
実際、平安時代からスサノヲ主祭神説が出て、中世を通じ江戸中期までは出雲大社の神は、スサノヲと信じられていたという。こんな史実には驚かされるが、祀られている神様が、こうも節操なく政治的に意図的に改変されてしまうことを知ると、やはり権威に対しては疑いの目をもたなければという気持ちがわいてくる。
(拝殿と奥に本殿の千木が見える)
この熊野大社の祭神クシミケヌノ命もやはり現在に到るまでスサノヲと混同されたままになっているのは、社伝に見るとおりである。
この社は出雲大社の反映と反比例して衰退したようだが、たまたま紀伊熊野と同じ名であることが災いし、紀伊熊野の隆盛の影に隠れてしまったことも、没落に拍車かけてしまったようだ。格こそ高いが明治に到るまで見る影もなかったのだろう。
ただしこの社の面目を保つ神事として、火にまつわる儀式が残されている。
ひとつは、出雲国造の霊継(いずものくにのみやつこのひつぎ)という神事。
(鑽火殿:火継ぎの神器が納められている、古い形をしてる)
もうひとつは毎年10月15日の「鑽火(きりび)祭」で、これは出雲大社で使う火をおこす新しいヒノキリウス・ヒキリキネを、出雲国造が自らが出向いてきて受け取る儀式だという。そのさい熊野大社は国造の持参した餅に難癖をつけるなどさんざん抵抗したすえに神器の受け渡しをするという演技めいたものらしい。
境内の一画に茅葺の鑽火殿があり、古式を伝えている。神聖・象徴的な火を授けるのは、熊野が出雲大社よりも格上という証左でもある。
記紀にみる「出雲の国譲り神話は・・・出雲臣一族が、物部氏などの朝廷側貴族のバックアップにより、本拠地の意宇地方から西部に進出し、この地を制圧して、オオナムチの祭祀権を握ったことの史実である。これは6世紀ごろである」(松前健)という説も、有力なのだそうだ。
(参考: 「熊野大社」 石塚尊俊 『日本の神々 神社と聖地7』