一の宮参拝 出雲大社 (出雲国ー2)

所在地  島根県出雲市大社町杵築東
祭 神  大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
参拝日  平成29年5月
 

イメージ 2

さて出雲大社に参拝したが、さすがに雄大で厳かな社殿には感動させられる。
瑞垣の周りをめぐるとややストイックな屋根のラインや色合いが実に静謐で美しい。また注連縄の形も大きさも計算された隙のないデザインでユニークだ。長い歴史の中でみがかれてきた意匠には、ため息が出るばかりである。
参拝客は多かった。
だが午後4時ころになると、意外にも門前の店もみなシャッターを閉じて閑散とした田舎町に変貌した。絶対的に人口が少ないのである。
 
イメージ 1
記紀出雲神話はよく知られているので、私がここでそれを持ち出すこともないだろう。
だがもう一つの神話「出雲の国風土記」では、出雲のイメージは大きく異なる。今回「風土記」の視点から勝手な思いをめぐらしてみた。
以下はそれを読んだ私の感想である。
 
まず一つは、冒頭におかれた八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)が国寄せをする物語は、語り部のおばあさんがつぶやくがごとき古い調べを感じさせ、秀逸だということである。
もし学校で神話を教えるのならば、真っ先にこの国寄せ神話を音読で教えるべきだろう。ただしこの話もこの神も記紀には登場しないので、すなわち天津神の話ではないので、日本のお偉方はどうおもうか。
国引きの東側は、越の国から引いたが、西側は新羅から引いてくる。これはスサノヲを信奉した新羅系の渡来人の発想ではなかろうか。それにしてもこの広大な感覚は海の民のものに違いない。
 
イメージ 3

一つは、オオナムチ(大穴持命)についてだが、大穴は実際の洞穴ではないか。
大国主命」は風土記には登場しない。すなわちそんな神はいないのである。
オオナムチは、記紀ではさまざまな名を持つ神で八面六臂の活躍をし、後世、大国がダイコク様と習合して民間の神に変質する。しかし風土記では、すべて大穴持命という名であり「天の下をお造りなされた大神命」(吉野裕 訳)と称号が付いている。そしてやはり記紀同様、妻問いをさかんにしている。

オオナムチとはひとりの人間ということではなかろうから、集団にとっての偉大な祖先の集合的偶像であり、その総称を地元ではオオナムチといったのだろう。大穴とはリアルなであり、当て字ではなく実際の穴のイメージではないだろうか。とすれば、風土記にある猪目の洞窟、加賀の洞窟などを聖地とし、そこで祭事を執り行い、やがて葦原の中つ国に進出してきた神なのかもしれない。
葦原の中つ国は、太古本土と離れていた島根の島が、斐伊川からの堆積により徐々に湿地となり、やがて現在のように陸でつながるわけだが、正にその湿地を指した言葉であるといわれる。その湿地をオオナムチは開拓したのだろう。

オオナムチは「最初は天然の洞穴信仰から生まれた神名で、のち地方君主たちの古墳埋葬の開始とともにその石室に眠る君主たちをいう神名となり、やがて統一的な人格神として「天の下をお造りになった大神」とされるように一般化されたと考えられる」(吉野裕)という説もある。
 
イメージ 4

一つは、オオナムチを奉戴したのは、江南から来た集団か。
海人を思わせる記述が、いろいろ見られる。
風土記の出雲の郡の産物に、「アワビは出雲の郡のがもっとも優秀である。これを捕らえる者は、世にいうところの御埼の海子(あま)がすなわちそれである」とあり、日御碕付近には素潜りを得意とし特徴ある海人が住んでおり、そのことを人々は知っていたことが伺える。
谷川健一氏に依れば、
魏志倭人伝」に倭の水人の記述があるが、彼らは刺青断髪し、それは中国の「越」(呉越同舟の越)の風俗と同じであり、中国江南の出自だということを暗示させる。また、阿曇氏や宗像氏は韓国から鉄を運んでいただろうとしている。(「甦る海上の道・日本と琉球谷川健一 文春新書)
九州北部にいた海人として知られている阿曇、宗像、緒方の集団は、宗像は胸に、緒方は尻に刺青をしていたという。阿曇も刺青をしていた。「世に言うところの」という風土記の表現は、あの刺青をした連中、という風に考えられはしないだろうか。
 
猪目の洞窟からは、ゴウホラ貝という南洋の貝の腕輪をした骨が出ている。
また、出雲大社、日御碕神社、佐太神社、三保神社という島根半島の有力神社は、いずれも海蛇を神の使いとしている。谷川氏に依れば、これはセグロウミヘビであり南洋に生息する海蛇である。(同書)
 
出雲の国が阿曇氏と関連があるとすれば、記紀の国ゆずり神話にあるタケミナカタの神が諏訪まで逃げてそこに納まった、という話がみえてくる。そこには安曇郡があり船の神事がある、その遠い理由が分ってくる。
 
イメージ 6
(本田の西面:神は正面ではなくこちら向きだという)

一つはスサノヲノミコトは、朝鮮から来た人びとか。
風土記にはヤマタノオロチの征伐や黄泉の国の王でありオオナムチに試練を与えるようなエピソードはない。決してスサブル神の様相はない。
しかし随所に登場し、またその子女の神々も登場し広く支持を集めていたことをうかがわせる。

海岸から10数キロ入った飯石郡に須佐神社があり、スサノヲはここに魂を鎮めた、と書かれている。(今回は参拝できなかった。)
スサノヲの、「スもサも鉄分を含む砂(砂鉄」の意を持つ朝鮮語から出た言葉と観るのが適当である。今でも砂鉄鉱業では「真砂(まさ)」といっている。・・・したがってスサノヲの神は製鉄の神であり、帰化人と関係する」(吉野裕)という説もある。
 
私が海岸の国道9号を走っていると、五十猛(いそたけ)という地名が目に入り、おやと思って調べるとそこに韓神新羅神社・五十猛神社(からかみしらぎ・いそたけ)が祀られていた。
五十猛は記紀ではスサノヲの子でありともに新羅から日本に渡ってきて、植林を進めた神であり、紀伊でも一の宮として祀られている。私は何年か前に紀伊伊太祁曽神社(いだきそ)を参拝したことがある。
製鉄には膨大な炭が必要であり、そのために韓国の山は禿山となったともいわれる。この両柱の神は、木の生い茂る製鉄の適地を求め渡来した集団が斎いた神なのだろう。
 
イメージ 5
大田市にある韓神新羅神社・五十猛神社)

スサノヲの神話は紀伊にもありそちらが本貫だという説もある。スサノヲ神が直接この地に渡来したのか、または紀伊から間接的に来たのかは諸説があるようだが、出雲にスサノウ信仰が広がっていたことだけはたしかである。
 
一つは、出雲と須佐の勢力争いがあったのか。
オオナムチがスサノヲの娘神に妻問いする場面が2回出てくることから、出雲オオナムチ系集団とスサノヲ系集団が、明らかに別集団であり、オオナムチ系がスサノヲ系を姻戚吸収していくように見受けられることである。

オオナムチ系は、中国の江南地域から渡来してきた漁労にたけた集団であったが、交易により鉄も手に入れ、葦原の中つ国を開拓し農業を起こし勢力を伸張させ、オオナムチを奉戴して出雲全体に勢力を伸ばしていく。

それに対し、スサノヲを奉戴したのは、新羅(韓国)から渡来した集団であり、稲作はもちろんだが、特に製鉄など金属を扱う技術が高かった。そして主に山地方面に根を張っていたが、次第に平野のオオナムチ系に押されていった。それは海上交通をオオナムチ系が支配したからではなかろうか。
 
してみると、荒神谷の青銅器の埋納は、江南の越人の子孫と韓国の子孫との抗争がその原因であった可能性も出てくる。
 
 
・・・・・・
こうした中で、やがて古墳時代を迎え、ヤマト政権の勢力が及んでくる。神話でいえば国ゆずりの大事件が起こるのであるが、それは史実の反映だとしたならば、一体何が起こったのか、私の手には負えない謎なので、とりあえず今回の出雲大社参拝記はこれで終わりにしておこう。
 
参拝の帰り道に、参道の東側に入ると、趣のある家並みがあり、そこは北島家だった。皇室との婚姻などで出雲国造の千家が話題に上るが、北島家も出雲国造である。かつて世襲問題で分派したという。ちょうど夏越の祓えで私も茅の輪をくぐってきた。
 
イメージ 7
(北島家側のみち)

(参考:「風土記」 吉野裕 訳 平凡社ライブラリー
出雲大社」石塚尊俊 『日本の神ゝ 神社と聖地7』
    「甦る海上の道・日本と琉球谷川健一 文春新書
    「出雲神話松前健 講談社現代新書