ホタルカズラ 草むらに深海の色 (ムラサキ科)

草むらに蛍蔓や海の碧

 

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(もっと深い青だがうまく色が出ない)

 

庭にはい回っているホタルカズラが、花をつけた。

花は、深い鮮やかなマリンブルーで、一目見ると釘付けになるほどだ。咲き始めは淡い紫色に近いが、数日たつと徐々に青みを増して、写真のように深い藍色になってきた。花自体はリンドウのように立派ではないが、この青さはやっぱり素晴らしい。

ホタルカズラの名前は、藪の中にあってもこの花の青さが、ホタルの光のように目につくところからつけられたと言われている。さもありなん。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200403112936j:plain(咲き始め)

これは数年前に堤防から採取してきたのものだが、つる茎ばかり伸ばして、一向に花をつけてくれない。そろそろ全部刈り取ってしまおうかと思っていた時分だった。

我が家の野草園(草の生えるに任せた庭のことだが)は、早春のセントウソウ、フラサバソウ、タンポポなどからハルノゲシ、キンポウゲ、ムラサキケマン、エンゴサク、ジュウニヒトエなどに花は移りつつある。

 

コロナ感染を避けて家に籠り、所在なく春の陽を浴びていると、トカゲが濡れ縁でやっぱり日向ぼっこに出てきて、だらしなく手足を伸ばしている。自分もうとうとしてしまう。

バロック音楽の皆川さんに

うしろより見る三月の去りゆくを

 

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バロック音楽のラジオ番組「音楽の泉」の終わりに、解説の皆川達夫さんが一言、退任のご挨拶をされた。「92歳になりました」「さようなら」とおっしゃられたときには、私の中で何か一つの時代の幕が下りた感じがして、思わずしんみりとした。

 

私はこの番組はあまり聞かなかったのだが、FMの朝6時「バロック音楽のたのしみ」の放送は3,40年間愛聴してきた。というよりタイマーセットで毎朝目覚ましに流れる生活だった。おかげでバロック音楽が文字通り体の髄までしみ込んでしまい、私の人生の一部となったようだ。

皆川さんはこの番組の解説を長年務められて、その衒いのない語り口は、朝の目覚めの頭脳に障りなく素直に穏やかに響いてきたものだった。(これが、家人に「起きなさい」などと言われると一日不愉快だったのだが・・・)

 

私に限らず、この番組が日本の音楽文化に与えた影響は大きいものがあると思う。バッハ、べートーベン、モーツァルト、3Bなどという固定観念を見事打ちこわし、広いヨーロッパの各地に固有の魅力ある民謡・音楽があふれそれが次第に洗練されていく様をしっかり教えてくれた。また宗教音楽だけでなく生き生きとした民衆の音楽があることも教えてくれた、そう私は思っている。 

私は今、下手なリコーダーを生活の楽しみにしているが、この喜びもまた番組のおかげに他ならない。去りゆく碩学に秘かに拍手をしたい。 

(駄句は、山口誓子句のパロディ)

名句に教わる8 春の水 (虚子、誓子)

春の川は、堰をきって流れキラキラして、まるで水の角が取れたような躍動感がある。みているだけで命の喜びを感じ、ついつい時間を忘れてしまう。

さて、たまにはプロの俳句を。

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橋に立てば春水我に向かって来昭和13年:虚子64歳)

 

春の水の勢い、雪解け水かもしれない、塞き止められていた水が田畑に流れてくるのかもしれない、昨日より一層強まった光の中で、みなもをきらきら光らせながら、漲る力を抑え切れない如くに溢れてくる。私はそれを見ながら、それを受け止めている。

明るい、生命力あふれて自信に満ちた句におもえる。

 

私は誓子の次の句を思い出す。

うしろより見る春水の去りゆくを」(昭和21年作:「晩刻」:誓子45歳)

「春水と行くを止むれば流れ去る」昭和18年作)

誓子は春水の後姿が見えたのだ、という。それらは流れ去りゆくものだった。誓子の研ぎすまされた感覚を感じる。

虚子の句とならべてみると、叙情の質の大きな違いに改めて驚き、俳人としての資質の差、時代の差を感じざるをえない。

虚子は誓子より一時代前に生きていた。伝統的な虚子の句の美は、変化する時代の中で、まるで化石のように旧いままだが、実に生きて活動する逞しく美しい化石であった、とでも形容するべきなのか。

 

春の水流れゝて又ここに (昭和7年:虚子58歳)

虚子の春の水は、流れ去ってもまたここに戻ってくる。大きく循環する宇宙の中にある、今この水、なのであり、彼の心の底深くには輪廻転生ともいうべき世界への不動の信頼があるようにみえてくる。誓子には見られないものである。

早春の山の花たち

ぷつぷつと面皰(にきび)が痒し木の芽時

 

f:id:zukunashitosan0420:20200321170901j:plain (キブシ)

 

先日700mほどの近くの山、高山市民の森(静岡市)に登った。といっても駐車場に車を停めて、そこから登るのは高低差100mほど。

早春の木々や草花の芽吹きを見に行くのが目的だったが、風は冷たく、草木が目を覚ますにはもう少し時間が必要のようだった。里山はもうニリンソウなどが咲き始めているけれど、この高さまで来ると草の芽も出ていない。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200321171025j:plainミツマタ

そんな中で、キブシ。ミツマタサンシュユ。マンサク。などの木の花が見られた。種類はわからないがサクラの仲間。それからツツジの類だろうか、柔らかな緑色の芽吹きも眼に入った。

早春の花木たちは、葉が出る前に花を咲かせる。いずれも一風変わった花の形をしている。これがどういう生き残り戦略なのかは知らないが、気の遠くなるほどの長い時間の中で獲得してきた能力なのだろう。それが季節を感じ取って、毎年決まってこの時季、枝先に花をつける。不思議としか言いようがない。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200321170649j:plain(山頂のサクラ)

頂は丸くきれいに刈り払われていて、その遠くには真っ白な富士山が控えていた。そして眼下には静岡・清水の60万人がごちゃごちゃ暮らす平野が手に取るように一望でき、遠くは伊豆半島から御前崎付近まで見はるかすことができた。

山頂はおそらくここ数年で木が伐採され整備されたのだろう。私は今までも何度かこの頂に立っているが、こんな素晴らしい眺望になっているとは知らなかった。

山頂には大きなサクラが一本残されていた。堂々と枝を伸ばしていて、もう枝先は幾分赤味を帯びていた。実に一幅の日本画のようで、花開いたら改めて見に来たいと思わせる。

 

市民の森の施設は、新型コロナの感染予防のため、閉じられていた。

管理人さんが、外のベンチで手持ち無沙汰にしていた。

「ここなら問題はないと思うんですが、市の施設だから一斉に使用中止になってね。私もやることがなくてね」

 

ついでながら

山頂にはコガネムシが何匹も歩いていた。ちょうど羽化の時期だったのだろうか。緑金色でとても美しく、図鑑でしらべると不確かだが、オオセンチコガネに似ている。

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カンアオイ 枯葉にひっそり

山城の空濠深しカンアオイ

 

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里山をウォーキングしていて、「アオイ」を目にしたので、記しておきたい。私はあまり目にすることがない野草である。

ひとつは藤枝市岡部町、一つは静岡市の丸子の山中であった。この二つが同種なのか、何という名前なのか、私にはとんと見当がつきかねる。図鑑をみると、ウスバサイシン、タマノカンアオイフタバアオイなどが掲載されており、カンアオイの一種かとも思われるが、地方によって細かい区別がありそうなので、なまじな品定めはやめておくのがよさそうだ。

 

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私が見たいずれもが、花は地味な土色でほとんど朽ちた枯葉と区別がつかない。しかも地面に転がっている感じである。これが花なのさえ疑わしくなってくる。が、どうやらこれは紛れもなく花であって、筒状のがくの中で秘かに自家受粉をするようだ。いかにも秘密めいているがどういう進化なのだろう、完全な自家受粉であるから、地域による個体差が固定化されるということか。

 

アオイというとアオイ科かと思うが、これはアオイといってもウマノスズクサ科である。馬の鈴、とは子どもがつけたようで素直な観察眼を感じて微笑ましい。アオイ科というのは、たとえば初夏のタチアオイなどであり全く別物になる。しかし平安時代以降は、アオイと言えばウマノスズクサ科のアオイを言うようになったという。それにしてもこんな地味な陰気なものが、なぜもてはやされたのか?という疑問がわく。

 

徳川家の家紋は、ご存じ「三つ葉葵」であるが、植物としては「ミツバアオイ」なるものは存在しないという。在るのは「フタバアオイ」であり、徳川の家紋はデザインだという。京都の上賀茂神社の紋はフタバアオイなので、徳川はその上を行くという意思表示だろうか。

賀茂神社葵祭では、アオイとカツラの枝を組み合わせて飾り物にすることでも知られている。葵のご縁なのだろうが、江戸時代に賀茂神社から徳川の駿府へ毎年アオイが送られていて、それは「葵使」と呼ばれ大名行列のように物々しかったのだという。幕末にこの行事が途絶えたが、先ごろまた復活させたという新聞記事を数年前に読んだ記憶があり、調べると現在でもこのイベントが続けられていて、静岡市の葵小学校ではその株を栽培して増やしているとのこと。

 

ついでに子規の句を検索すると、

古庭の雪に見出す葵哉 (明治29年) これはウマノスズクサ科のようだ。

半日の嵐に折るゝ葵かな 明治31年)これはタチアオイのようだ。

子規の句のアオイは大半がタチアオイであり、明治20,30年には東京ではアオイといえばタチアオイを指すことのほうが多かったのかもしれない。紛らわしいことだ。

 

以上あれこれを散漫だが、連想することなどを・・・。

玉之浦(ツバキ)と遣唐使のつながり?

風にあらずメジロ啄む花ツバキ

 

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庭のツバキが、今年はこの十年でなかったほどたくさん花をつけた。5年ほど前は、ひとつもつけなかったのだが、どういう事情があるのだろう。

これは玉の浦という人気のある品種。花弁は赤だがその縁が白く彩られていて目を奪うほど鮮やかであるが嫌みのない品がある。咲き方も筒状から少しずつ開いてつつましさがある。私はツバキのファンでもないが、数多くの品種がある中でも玉之浦は美しいと思っている。

残念なことに、メジロやヒヨの格好のスウィーツらしく、啄まれてしまうので傷のないものがない。

 

玉之浦、というのは五島列島福江島にある地名だという。ネット情報によれば、このツバキはヤブツバキの突然変異で、昭和22年に玉之浦町の山中で一本だけ偶然に発見されたもの。幻のツバキとして愛好家の注目を浴びたが、原木は枝をとられ根をとられして絶えてしまったようだ。

 

さて、ヤブツバキは、学名がカメリア・ジャポニカで、列記とした日本原産の花である。日本のツバキは18世紀、江戸時代にいわゆるプラントハンターらにより、西洋にもたらされた。

以前ドレスデン近くの「ピルニッツ宮殿」を訪れたことがあるが、そこに樹齢200年を越す大きなツバキが繁っていた。それは18世紀に日本を訪れたスウェーデンの植物学者ツンベルク(トゥーンベリ)という人が、長崎から椿の苗を4本持ち帰ったものの一つで、唯一現存するものだと説明を受けたことがあった。それらが改良され、ブームを引き起こしアンドレ・デュマの「椿姫」に開花していくのは誰もが知るところだ。

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 しかし、中尾佐助氏によると、日本は古代に「遣隋使や遣唐使を派遣して組織的に中国文化を輸入したが、その時に日本文化が中国に輸出されなかったか、と考えてみると、その例としてツバキが指摘できるようである。」

「隋の煬帝の詩の中に「海榴」という言葉が出てくる。これは海を渡って渡来したザクロのような花と解され、日本からのツバキに相違あるまいと考証されている。」として、中尾佐助氏はこれが「日本文化の輸出の第1号」ではなかったかとしている。*1古代から日本を代表する花だったといえる。

 

遣唐使のルートは朝鮮半島の西側を経由していたが、8世紀以降はいわゆる南路のルートをとるようになった。これは那の津(博多)から五島列島福江島に寄港し、そこから東シナ海を一気に渡るのである。この福江島こそ、玉之浦のふるさとである。

司馬遼太郎は「空海の風景」で遣唐使船に触れている。*2

「当時の日本が、東アジアが共有していた航海知識や技術の圏外に居た」ために、渡航は実に悲劇的だった。そのため「逃げたり、こばんだりする者もいた」そして五島列島まで来ると、「この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。」「ひとびとの疲労と緊張は尋常でなくなったであろう。狂う者も出た」という状況であったらしい。

 

福江島で「水と食料を積み、船体の修理をして風を待つのである。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本に吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏を選ぶ。わざわざ逆風の季節を選ぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に無知であった」と、司馬遼太郎は酷評している。

 

ツバキのことを考えると、古代に唐に渡ったと思われる日本のヤブツバキもまた、この福江島のものではなかったか。出航の時期はすでに花はないので、根のついた株をこの島から積み込んだのではないか。種も用意したに違いない。空海最澄もそんな作業を見ていたかもしれない。阿倍仲麻呂山上憶良も。

 

ついでのついでに思い出したが、10年以上前のこと。

職場でアルバイトさんを雇ったことがあった。採用されたのは、快活で愛くるしい若奥さんだった。この彼女は、たまたま夫の転勤で静岡に来ていたのだが、何と勤務地がそもそも福江島の人だった。快活という以上になかなか芯の強い女性だった。

昨年この職場の懇親会の席で、彼女のことが話題になり、「それじゃあ!」と一人が福江島に電話をした。彼女もよく覚えていて携帯を回しながら皆でわいわいと思い出を語り合った。

 

玉之浦がわが狭い庭に花をつける。寄り付くヒヨを時おり追いながら勝手な想像・回想が膨らむ。

 

*1 中尾佐助 「花と木の文化史」 岩波新書

*2 司馬遼太郎 「空海の風景」上 中央公論社

マンサクにコロナ

マンサクのころなり郷を出で立ちぬ

 

新型コロナウィルスが感染拡大。政府はバタバタと休校を要請、野球もサッカーも自粛。株は下がり、裁判員裁判も延期。マスクがない。

冒頭の俳句は、コロナをよみ込んで、遊んだもの。

 

f:id:zukunashitosan0420:20130518091012j:plain湯殿山への道で)

 

さて、マンサクは

山の雪が溶けはじめるころ、地味な花をつける。花には遅い雪も降ることがある。

派手な花しか花だと思っていなかった田舎の小僧に、マンサクの良さなど解ろうはずがなかったし、気にも留めたことがなかった。50にも60にもなって故郷の春をしのんだ折に、ふと目に入って「ああそういえばこんな木があったなあ。」

 

故郷の山のマンサクは、茶色っぽくて地味そのものだった。枯れ木に紛れて気を付けてみないと気が付かないほどだ。里にはフクジュソウキクザキイチゲ、そうしてカタクリなどが咲きだす。

 

この時期は、人生の旅立ちの時でもあった。

半世紀前は、今では考えられないほど、家を離れることが人生の大きな節目であって、独りで生きていく、故郷に錦を飾れるようになるまでは戻らない、そんな一種悲壮な意識が自分にも親にもあったように思う。

過去の自分との決別、そして心細さと緊張。そんなものが綯い交ぜになって胸の底が波うつ。雪国のまだ冷たい風が襟元に吹きこみ、足がシーンと冷えてくる。

 

以前、春の湯殿山に参拝したとき、雪でまだ開いていない道を歩いて上ると、途中で本当にきれいなマンサクに出会った。知っている茶色の花ではなく、ずっと白かった。春の女神、のように思えた。足元には水芭蕉の花がふくらもうとしていた。