芽吹き 3様

ふうくふく吹いてふくれろ草芽吹け

 

3月の光はやっぱり強くて暖かい。

この日射しをうけて、草の芽たちもどんどん膨らんで土から顔を出してくる。

 

これはヤブレガサ。もう少し経てば名前のとおりの姿をした葉を開いてくる。まだ傘をたたんだ状態だが、いかにもヌーボーとしてユニークな姿をしている。近くの山に行けば珍しくもないのだが、庭先でこうして見るのもいい。

 

ヤブカンゾウ。奴さんのような姿で並んで出てくる。小さいうちは可愛いのだが、何しろ旺盛な伸び方をする。花も力いっぱいで大雑把。

 

これは葉より先んじて面白い花をつける、タンチョウソウ。この名前で売っていたのでそうしているが、正式な名前があるのだろうか?イワヤツデというのに似ている気もするが。

 

これはベンケイソウ。ミニチュアのおもちゃのような姿でふつふつと小さい顔を出してくる。これも生命力あふれる草だが、このところ花が咲かない。栄養過多か?

10年以上前に鳥海山のふもとの遊佐町の海岸から持ってきた株。静岡は温か過ぎてこいつもやる気がしていないかもしれない。

 

 

「震洋」特攻艇の格納庫跡を訪ねる(清水の三保)

草枯れて戦跡埋ずむ三保の浜

 

(一番目立ち大きい格納庫)

 

清水の三保は羽衣の松、白砂清松と富士山の景観で親しまれ世界遺産となっている。だが、ここに80年前の戦争遺跡が残されていることは、私も知らなかった。

先日、ふと目にした児童用の静岡市の歴史の冊子に、小さく、本当に小さく「震洋」の基地があったと書かれていて、なんだろうと思いネットを調べると、三保には海軍航空隊がありここに第136震洋航空隊がおかれ、「震洋」の格納庫が幾つか現存しているという。市民の多くは知らないのではないか。さっそく友人と現物を確認にいった。

2024年2月時点での状況報告としておきたい。

 

震洋」とはなにか?

終戦近くに開発された非道な人間兵器、小型の特攻ボートである。小型のべニア張りのボートにトラックのエンジンをつけて船頭に爆薬を積んで、猛スピードで敵の大型艦に体当たりする。費用も安く上がり終戦までに約6000台が量産されて、全国の基地に配備されたのだという。

(NHKの WEB戦跡からお借りしました)

 

三保基地にはしかし、3,4台程度しか配備はされなかったようだし、またここから死の出撃はなかったらしい。それを知って幾分気が楽になる。

 

三保を行くと、先ず分かったのが上の写真の格納庫。これが一番目立ち、一番大きい。住宅内にあり現在倉庫として使われているようだ。80年経ってもコンクリートはまだしっかりしている。(三保3117-3)

 

次は三保マリーナの敷地にあり、倉庫になっている。

 

次は道路わきに1mほどの高さでその上部だけを見せていて、これは何だろう?とおもわせる風情である。隣の廃墟住宅ともども路面よりもずいぶん低いところにあり、「砂の女」を思わせる。(三保2903-9)

 

次はマリーナ入口から堤防に沿って北に5,60mの大きな松の影に1基。これもかつては民家の倉庫だった様子。

さらに付近に2基ほどあるという情報もあるが、ひどい竹やぶで昼でも暗い内部はうかがい知れず、2人で顔を見合わせて断念した。

次は、東海大学松前球場のライト側の林の中に土手に頭だけを出して隠れていた。これは奥行きがあまりなく、渚とも離れており隊員の避難所かとも思える。汚れていて中にはタヌキの死骸が腐っていた。

 

現場では以上だが、

ネットを探していると、浅見幸也さん(静岡平和資料館をつくる会運営委員長)が次のように語っていたので、分かりやすいので引用させていただだく。

 

日本の戦況が著しく悪化しはじめた1944年(昭和19)には震洋特別攻撃隊が編成され、海軍飛行予科練習生(予科練)の卒業生たちが全国100箇所以上につくられた基地へ配置されました。静岡県では伊豆半島(東部地方)を中心に5隊が配置され、なかでも三保基地には第136震洋隊、総員48名が集まったそうです。

とはいえ、隊員の多くはパイロットになるべく志願し訓練を行ってきた人たちです。ベニヤ板と小型エンジンでつくられた簡素なボートをみて、実際は落胆する隊員も少なくなかったといいます。

(参考 https://gakuseinews.eshizuoka.jp/e1566994.html )

 

さて、

三保におかれた海軍航空隊をしのぶ遺跡はあまり残されていないようだ。三保灯台の近くに「甲飛予科練之像」が建てられており、次のように書かれている。

だが特攻隊、「震洋」のことには触れていない。予科練震洋特攻隊とはどんな関係にあったのだろうか。

 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた。

学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。

 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。

 

予科練というと土浦の七つボタンの軍歌を想起するが、恥ずかしい話、三保にもあったことは知らなかった。予科練の建物の一部が残っているという情報もあるが、はっきりしない。

その広大な跡地は高校や東海大学の施設に使われているのだが、付近の農業ハウスは壊れたままだし、かつてあった遊園地は竹やぶと化している。近くのホテルももう廃業している。この三保地区は造船業の不況などで人口が激減してしまったという。

 

湾の内浜をうろうろしていると、湾内のクルーズ船から観光客が降りてきた。すぐ脇の藪の中に「震洋」格納庫があることをもちろん知りもしない。わたしもこの時初めて知ったのだった。

以前、高知県で飛行機の掩体を探してみたことを、思いだしている。こちらは三保よりも保存が進んでいた。

参考 

戦争遺産「掩体」を土佐に訪ねる - 続 曇りのち快晴

ツバキ「玉之浦」の子ども

赤白に競ひて散りぼふ椿かな

 

(今年の花はまだ来ないので、2年前のもの)

 

「玉之浦」という椿は、紅色の花弁に白い縁取りが鮮やかな美しい花で、かつては好事家垂涎の的だったらしい。我が家の庭にも一本あり、園芸花木には興味のない私でさえ、花の時季にはやきもきさせられる。

 

「紅い花」てふ漫画懐かし椿落つ

(落花の美しさも)

 

椿は、実生で咲く花は親に似ないらしい。何故そうなのか園芸の知識のない私には不思議なことである。親と同じ性質の花を得ようとするなら、挿し木などで増やすしかないということらしい。(園芸通なら当たり前のことかもしれないが)

その実生の幼木に、今年は花がついた。

驚いたことに、親とは似ても似つかない姿である。子どもは大柄でぼってりとして花弁は幾重にも重なっており、紅色だが白い覆輪はない。重そうで細い枝は折れそうに垂れ下がっている。

(あの親にしてこの子あり)

2月初旬、近くの岡部町というところにある椿園を見にいった。花はまだだった。手入れをしているおじさんに玉之浦の実生のことを話すと、

「玉之浦は良いですね、でも実生は親とは違うからね。その実生は新しい種かもしれないよ」と説明してくれる。新しい種、ということは世界に一つということか、となにか感心した。

「この2,3年日本中に、椿の病気が流行って、花が腐ってしまい実がつかない」と嘆きながらまた、消毒に向かわれた。

 

新しい花かもしれない、という言葉は私を刺激した。

「玉之浦」は長崎県五島列島にある福江島の玉之浦で発見された花である。このたった一本の原木から「玉之浦」は世界に広がった。実生ではだめなので挿し木で増えたのだろう。

この地域のNPO法人「カメリア五島」が出している「まぼろしの椿 玉之浦」という冊子を福江島から取り寄せて読んでみた。原木発見の経緯や、白い覆輪が出るメカニズムについての九州大学の遺伝子解析、玉之浦から生まれた新しい品種などについて、地元ならではの愛情をもって編集されていて、いい本だった。福江島が椿のジーンバンクとしても特異な地域であることも教えられた。

この本のなかでも、私の家の実生の花に似たものは、掲載されていない。ではやっぱり新しい品種だな。名前を付けようかな。などと一人悦に入っている。

 

参考

zukunashitosan0420.hatenablog.com

光岳小屋・・・想いだすこと

ラジオをかけたら、最近新たに光岳小屋の管理者になったという女性がゲスト出演していて、色々な話をされていた。40年ぶりに管理者が交代し運営形態も変わったと報じている。若々しい大変明るい女性で、開業を11月まで延長したり、ランチを提供するというような話を元気な口調で話していた。バイタリティーあふれ発信力もありそうで、小屋のイメージも変わるのだろう。こうして時代が変わるのか、という感がした。

(新しい小屋 屋根の上に見えているのはイザルガ岳 ウェブから借用)

光岳は南アルプスの稜線の南部にあり標高は2592m、アクセスが悪く登りがきついために中々近づきにくい山なのだが、深田久弥百名山に選ばれていて最近は登山者も多いようだ。私の甥っ子H君も百名山登頂を目指しており、聞くと先年、飯田市の易老渡からのルートで登ったと言う。

光岳小屋は、光岳山頂から15分ほどのところにある。

 

ラジオを聞いていて、私も30年前に苦労して登ったことを思い出した。

私は、たまたま本川根町(当時)の方から同行しないかと誘われて営林署の方や登山協会の方と一緒に登るチャンスを得たのだった。なんと山小屋では食事付きという好条件だった。(当時光岳小屋は食事は出していなかったと記憶する。)

メモを見ると、早朝に役場を出た車で寸又川林道を30キロほど遡り(ひどく荒れていた)、柴沢登山口から直ぐに急登に取りついたが、前夜はあまり睡眠をとっていなかった私は皆から徐々に遅れ、疲れて腰を下ろすとそのままうとうとしてしまった。目を覚ますと小屋の管理人の原田さんが、私のすぐ脇で待っていてくれた。細い体の人で細面で少しあごひげが伸び、極めて物静かな方だった。彼は一服しながら普段は東京で仕事をしていて夏だけここに来ること、光岳はハイマツの南限であることなど物静かに話された。そうしてまた大きな荷物の背負子を担いで、百俣沢の頭まで同行してくれた。そんなことがメモしてある。

(柴沢の登山口(と思われる) このルートは今はどうなっているのか知らない)(黄色いシャツで俯いているのが当時の管理人の原田氏)

インターネットで見ると、山小屋は当時と比べて見違えるほど立派になっている。当時は平屋で中に入ると畳敷の部屋がひとつあるだけ。たしかその真中に炉がありストーブが燃えていて、それで暖を取りながら寝たような記憶がある。南アルプスの他の山小屋、たとえば千枚小屋や赤石小屋と比べて、とても粗末な小屋だった。小屋の中や外見、光岳などを描いた手書きの絵葉書を2,3枚をいただいて持っていたはずだが、今回探したが見当たらない。断捨離したのかもしれない。わずかな写真が手元にあるだけだ。記憶もぼんやりしているから間違いもあるかもしれない。

 

(1996年8月時点の光岳小屋  バックは南アルプス南部の峰々)

けれど私の記憶で鮮明なのは、夜中の事件だ。

この夜は初老の客2人も投宿していて、我々一同と一緒に酒を飲み、話もいろいろと交わした。お2人は聖岳の方から縦走してきたといい、登山人特有の踏破した山自慢を披露した。しかしその一人は、奥さんを亡くしてから登山を始め、何やら憑かれるように山に来ている、という風なことを漏らした。そしてだいぶ酩酊してきていた。その夜はひと間に10人ほどがストーブを真ん中にして雑魚寝をした。

ところが真夜中、突然の大声に、何事か!と皆びっくりしてたたき起こされた。大声の主はあの酔った人だった。はっきりはしないが大声で謝っているような物言いで、「俺が悪かった、許してくれ」とか言っている。それがしばらくの間続き、みな辟易してしまったのだが、やがて徐々に静かになり、みんなまた深い眠りに落ちた。

 

後々、私はこの出来事を思い出しては慄然とした。自分では背負いきれないほどのマイナスを感じて、贖罪のように追いたてられて山に向かい、きつい坂を喘ぐ。そういう試練を自分が生きていることが罪悪であるかのように自分に課している。それでも気を緩めるとマイナスが噴出してきてしまう。酔いに過去を忘れようとしても、山小屋まで追いかけて来る暗い怨念。この人にも何か救済があってほしいものだ。勘ぐりすぎかもしれないが、そう感じたのだった。

 

もう一つ、連想されたのは藤森栄一さんの「古道」にある「ルング・ワンダルング」の中の「身の毛のよだつような」奇譚。(ルング・ワンダルングとは、方向感覚を失ってほぼ同じ所をぐるぐる回ってしまうこと)

藤森少年は友人らと、釜無川を詰めて甲斐駒の鋸を踏破しようとしたとき、第3キレットの近くで、あり得ぬことに人が寝ていた。恐る恐る帽子をとって、見ると、・・・それは死骸だった。しかも生きているように新しい。皆恐怖に震えて必死に岩場を越えて甲斐駒の行者小屋に逃げ込んだ。ところがその夜更けに「キーン、キーンと石突で岩をつつくような響きが断続的に聞こえてき」て、小屋にいた行者は「・・・また来やがったナ・・・と、ぶつぶつ言って、祈祷をはじめた。」行者は呪文を唱えたまま、そのうちに「ぽいんぽいんと跳びあがり始め」、そのままひっくり返ってひきつったように口から泡を出して呪文を続けていた。少年らは恐怖でまんじりともできない。

翌日はまたキュレットのルートを引き返した。そうして例の場所に来ると、死骸は、・・・まだあった。しかし死骸の頭が逆向きなっている、動いているのだ。少年たちは死骸を飛び越えて、追ってきそうな恐れを感じて懸命に逃げた。そうして必死に辿り着いたのが、なんと今朝出立した行者小屋だった。気づかぬうちにまたバックしてしまったというのだ。

 

藤森さんの経験した「身の毛のよだつ」ルング・ワンダルング。そして行者の不気味な闘い、山にはこうした人知を超えたものがあるに違いない、と私は思う。光岳小屋での夜中の出来事は、必ず藤森さんのこの奇譚を一緒につれて記憶の奥から出てくるのである。

いろんな意味で光岳は私にとって思い出深い。

(イザルガ岳からの日の出 富士山のシルエットが美しい)

 

水鳥の幾種かを

水鳥は哀しくもなし波のまま

 

近くの沼のぐるりを歩いた。ゆっくりで小一時間はかかった。この時季は野鳥がたくさん見られる。けれど残念ながら私は鳥には全く目が利かない。

白鳥くらいは分かるが、コハクチョウオオハクチョウかは、よく分かっていない。

今日は白鳥が5,6羽、沼の反対側の葦辺にみられた。ここ数年毎年のように見られるので、もうあまり感動がなくなってきて、最近は白鳥を狙うカメラマンの姿も少ない。私の小型カメラで一枚。

カモの仲間は、区別がつかないので無視する。オオバンなどにも眼をむけない。

 

 

池の端を静かに歩いているのだが、足下からカモやサギが大声を出して飛び立つ。逆にこちらがびっくりしてしまう。静かといえば、寒鮒釣りの人たちは本当に静かに水面を見たまま動かない。こんな沼での釣りは何が楽しいのだろうか、孤独に沈潜している。

と思ってふいと釣り人の脇をみたら、なんとそのすぐ1mほどのところに大きなアオサギがじっと立っていて、釣人と並んで同じ水面を見ているではないか。これには驚いた。釣った魚の分け前を知って近くにいるのだろうか?

それにしても釣り人は、ほとんど三昧の境地で、忍法でいう、気配を消しさっている、と感心し半ば呆れて私も静かにその場を立ち去った。

 

(杭にとまるのはウミウでしょうか)

広い沼には棒杭が何本か立っていて、たいていそのすべてに鵜がとまっている。鵜はカワウとウミウとがいるが、この沼には両方いると思われる。今日近くに来たのはカワウだろう、どう猛な顔なので一枚パチリ。

(これはカワウか)

 

その先にゆけばカワセミの巣があるはず、と私が前々からにらんでいる場所だが、案の定、鮮やかな瑠璃色を見つけた。しかも今日は2羽が鳴きながら戯れ?ていた。初めてのシーンである。恋の季節なのだろうと決めつけてしまったが、もしかしたら縄張り争いなのかもしれない。しばらく見ていると何度か水に飛び込んだが、あまり真剣でもなく、獲れた様子はなかった。この季節は枯草の中で不釣り合いなほどきれいな色だ。

その他見えたものは、ジョウビタキ、つぐみ、メジロなど、いずれも正確に見分けることができないが、そんな類のもの。

最近の暖冬、沼を歩いていても汗をかく。鳥たちも多分しのぎやすいのだろう。みていても牧水の「悲しからずや」の感慨にはならなかった。

 

桜とピンクのマラソンランナー

寒村に緋寒桜や長屋門

 

大阪女子マラソンで前田穂南さんが、2時間18分59秒で走り日本記録を更新した。野口みずきさんの記録を塗り替えるのは19年ぶりだという。世界レベルにはまだまだ差があるが、驚異的な速さと持久力だ。

テレビ放映では音がよく伝わってこないのだが、ユーチューブでいろいろな画像をみると、最後の方はハアーハアーと激しい息づかいが聞こえてきて、画面を見るこちらも息が苦しくなるほどだ。あたかもふいごが肺に空気を送り込み、肉体は走る機関車そのものに思えてくる。こうした真のマラソンの激しさを伝えられるよう、テレビの実況アナウンサーの余計な大声は止めてもらいたいものだ。

前田さんの手袋と厚底靴の異様に大きく見えた。

前田さんの所属するてんまやのユニフォームはピンクがメインの色だ。ピンクや紅色は春をまついくぶん華やいだ気分にふさわしい。

近くの公園や安倍川の堤防のカワヅサクラは、そろそろ咲き始めている。木によって色の濃い薄いがあるようだが、写真のは堤防のもので、色が薄い方と言えるだろう。カワズサクラは早咲きなのだが、もっと早いのが緋寒桜だ。これも近くの農家の庭に咲いていて、もう八分咲きと言っていいだろう。濃い紅色の花をびっしりと付けている。写真を撮っているとメジロだろうか、忙しく飛び交わしている。

紅梅も木瓜も咲いてきた。

(堤防のカワヅザクラ

一月が早くも終わろうとしている。小さい絵を一枚描いただけだった。

50年間逃亡生活を送ったテロリストが、末期ガンで病院に運ばれ死の床で本名を明かした。事件については「悔いている」と言ったらしいが。彼にとって過去はどう思えていたのだろう。

不屈の横綱照ノ富士がケガで4場所ぶりに出場し、決定戦で琴の若を破って優勝した。横綱候補の霧島を放り投げ、琴の若を難なく退けた。

能登地震からひと月。まだ1万人余りが避難所暮らし。その半数は県市町の公的な避難所ではなく自主的な避難所だという。農業のビニールハウスで暮らしていた人たちはどうしたのだろう。

かたや国会は政治資金の議論で盛り上がっている。ダイハツ豊田織機の不正データ処理。

一月尽の雑感。

 

 

南天といえばヒヨドリ

鵯(ひよ)の口 南天の実の赤々と

ここ数日、庭の南天ヒヨドリが来て赤い実をついばんでいく。5,6羽でくると賑やかというよりピーピーとうるさいこと甚だしい。枝は細いが揺れながら上手に止って1個、2個と啄む。小さい鳥は一つ啄むと飛び立っていく。ホバリングしながら啄んでいくのもいる。

で、10ばかりもあった果穂が3、4日で、それはそれはきれいさっぱり実は1つもなくなった。啄んでいる様を見るとほとんど丸のみではないかと思われる。ヒヨは随分と南天が好きなようだ。

これが美味いものなのかどうか、試しに食べてみることにして実を探したが本当に一つも残っていない。仕方なく落としていった実を3つばかり、洗って口にすると・・・美味くもなんともない。糖分が少しあるかなとも感じるが、人間にはあまり味は感じられない。一体これを何粒食べれば、一日のカロリーが賄えるのだろうかと、ふと思う。

 

ネットで調べてみると、スズメの必要カロリーの計算が掲載されていた。

基礎代謝率(BMR)は、体重kgの0.75乗×129であり、1日当りの維持エネルギー要求量MER(Kcal/日)=BMR×1.5

なのだと言う。スズメは25グラム程度なので・・・おっと、0.75乗ってどう計算するの? これは3/4乗なので3乗してルートを2回開けばいい(これもネット調べ)とのことなので、

これを計算すると、ほぼ12kcalという数字が出てくる。

 

まあ全くの推量計算なので、大小や季節などでおおきな違いがあるのだろう。が、まあ20kcaとしてもミカンMサイズの半分程度。じっとしていればそんなくらいで生きていけるということだろう。もちろん遠くへ飛べばもっと必要となるはずだ。

ヒヨドリの場合は体重も多く、しかも喧嘩っ早いので常時アドレナリンがでているだろうから、もっとずっと多いと思われる。それをこんなナンテンの実で賄えるのだろうかね。私が心配する必要もないだろうが。

庭のエサ台には市販のフィードを置いているが、こちらにはヒヨは目向きもせず、スズメとハトしか来ない。餌はヒエ、アワなど穀類や木の実などで、カロリーが高そうなのに。ところがまたメジロもこれを食べずに、ミカンにしか目がない。棲み分けと同じで食べ分けをしながら、上手に共存しているということだろうか。この辺り、人間より賢そうだ。

メジロが、そんなもの食べれるの?と不思議そうに見ている)


わが庭の赤い実たち、ナンテンマンリョウ、センリョウは、そろそろ小鳥によって食べ尽くされ糞に紛れて遠くへ運ばれる、そんな時期になったようだ。