一の宮巡詣記(67番) 対馬の和多津美神社、海神神社

和多津美神社(対馬

所在地 対馬市豊玉町仁位和宮55

祭神 彦火火出見尊豊玉姫命

参拝日 令和4年10月21日

 

 

 対馬一の宮として有力なのは、仁位の和多都美神社と木坂の海神神社の二社である。

「海神」の社名は本来これでわたづみと読むのだが、仁位の神社と紛らわしいので、かいじんと呼び習わしているという。すなわち両社同じ社名である。

ワタヅミは、ワタは海の古い言葉、ツは助詞の、の意味、ミは神霊を意味する。いうまでもなく海を支配する神である。対馬には、上記のほかに2社あるといい、いかにも海の只中の島を感じさせる。

まず仁位の和多都美神社を訪れた。

島の中央部をえぐるような浅茅湾からさらに入り込んだ深い入り江の奥に鎮座していて、その鳥居は浅瀬の水に浸っており、厳島神社に劣らない美しさである。山道をウネウネと走ってきた参拝者には、実に爽やかな印象を与え、ここまで来た甲斐があったとおもわせてくれる。神は海から訪れ、参拝者も昔は当然海から来たのだろう。

 

当社の由来書は次のように説明している。

海神の豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神穂高見尊、二女神は豊玉姫命玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下り来て、この海宮に滞在すること3年、終に豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。

彦火々出見尊は「山彦」、豊玉姫命は「乙姫様」なので、これは日本神話の海幸山幸である。

 

対馬神社ガイドブック』(対馬観光物産協会発行)を抜粋すると次のようなことになる。

対馬の伝承では、山幸彦は失くした釣針を探す旅で対馬の各地を転々とし、豊玉姫と出逢うのが豊玉町仁位の和多都美神社。二人の間に子神であるウガヤが誕生したのは鴨居瀬というところ。豊玉町千尋藻の六御前神社にはウガヤと6人の乳母が祭られています。

また、兄の海幸彦は九州南部(鹿児島・宮崎)の隼人(はやと)の祖先とされており、対馬をふくめた九州北部の海洋民が信仰していたのが海神・豊玉姫だとすると、天皇家の祖先である山幸彦の一族と、九州北部の海洋民が手を結び、九州南部の隼人勢力を征服したという歴史物語が見えてきます。

と島内に山彦の足跡が残ることなど興味ある説明をしている。

 

神話ではその後、豊玉姫は出産のとき山彦にワニの正体を見られて、いろこの宮に還ってしまい、代わりに妹の玉依姫が乳母として登場しウガヤを養育し、さらにウガヤの子を産み、それが初代の神武天皇となる、という話になるのは誰もがよく知るところだ。

 

ところで、和多都美神社前の干潟には奇妙な石が祀られている。一抱えほどの大きさである。

これは「磯良エベス」と呼ばれていて、石の表面がうろこ状に亀裂が入っていて、あたかもワニやヘビを想像させる。神話にトヨタマヒメが出産のときに八尋のワニとなり、のたうち回っていた。これを見た山彦はびっくりして逃げ出したという場面があるが、それを連想させるに十分である。として、永留氏は、「これが原初の神体だったにちがいない」、「海神宮を「いろこの宮」(いろこ=鱗)と称したゆえんも、これがそのシンボルかと考えられる」。*1 と書いている。

この石の奇怪さは、古代人に畏敬とともに物語を紡ぎださせた、のだろう。

「磯良エベス」とは、奇怪な顔した神で、海底に棲む奇怪な海の神だとも、豊玉姫の子ともいわれウガヤフキアエズとも同一視されている。」*2 その顔つきは、オコゼのようだと言われている。

谷川健一氏は「古代海人の世界」で「安曇磯良とオコゼ」を1項おこしているが、「もしオコゼが磯良のイメージの原形であるとすれば、オコゼは魚の主もしくは海霊であり、海の神そのものである。・・・オコゼは海の女神自身そのものだったことになる

*3 としている。古代人の人知を超えたものに対する畏敬と逞しい想像力が垣間見える。

話は飛ぶが、今回、壱岐でオコゼの刺身を食べてしまった。貴重な体験だった。神であったら祟りがありそうだが、何とか全員無事に帰還できている。

 (オコゼ:写真は同行のE氏)

 

(参考)

*1 永留久恵 「和多津美神社、海神神社」『日本の神々』1 白水社

*2 「対馬神社ガイドブック」~神話の源流への旅から: 対馬観光物産協会発行

*3 谷川健一 「古代海人の世界」小学館

 

 

海神神社 (対馬

所在地  対馬市峰町木坂247

祭神 主祭神豊玉姫命配祀神彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命  

参拝日 令和4年10月21日

さて一方、

木坂の海神神社は、峰町木坂伊豆山に鎮座している。鳥居前は平地となっていたが多分その昔は渚であったと思わせる。そのぶん趣では仁位の和多都美神社に軍配が上がる。

境内に入り背後の伊豆山につけられた石段は、二の鳥居から急になり本殿につくとへとへとだった。森閑とした社叢である。

主祭神豊玉姫命配祀神彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。由緒書きによれば、

 「本社は、延喜式神名帳所載、対馬上県郡名神大社和多都美神社に比定され、神功皇后の旗八流を納めた所として八幡本宮と号し、対馬一ノ宮と称されたもので、明治四年に海神神社と改称、国幣中社に列せられた。」

とのこと。しかし中世以降は江戸時代までは八幡神を祀っていたという。

「古い由緒には、神功皇后新羅親征の帰途、幡八流を祀らしめたもので、わが国の八幡宮創始の地」と伝えているという。宇佐八幡に抗して、八幡宮の元祖を唱えているのも面白い、と永留氏は言う。だがこれは少し後世のことになる。

 

ここでの御朱印は、無人社務所に置かれていた。仁位の和多都美神社でも海神神社の御朱印がいただけるが、先に海神神社に詣でた後でないと書いていただけない、ようだ。

さて、こうした海神神社に見られる記紀神話との類似性は、どう解釈するべきなのか。諸説はあるが、確かなことは分からない。

神話学者の大林太良氏は、海幸山幸の話について「英雄が失われた釣り針を求めて水中に赴き、取り戻してくる形式の説話」は「太平洋のまわりに非常に広く分布している」。そして特に「インドネシアからオセアニアの一部にかけて分布する話」が、共通点が多く注目されているとしている。(*1)

ということは、記紀の神話には、古い文字もない時代からの神物語が、海人たちにより連綿と語り伝えられ、悠久の時を越えて書きとめられているということだ。これを伝えている神社を祀ってきた人々は、はるばる南の海から来たのかもしれない。

 

それにしても、日本神話をそのまま抱えたような神社が、壱岐対馬にはたくさんある。

山彦、豊玉姫だけでなく、対馬には非常に思弁的な天文学的な神であるアマテル神社、壱岐には月読神社がある。しかもこれらは壱岐対馬から畿内分祀されたという記事もある。これはどうも海人とは別のルーツを持っている雰囲気がする。

「日本中で対馬だけが異例で、天津神たちが土着神として島内にいくらでもーーーごろごろと祀られているというのはどういうことであろう。天津神古神道にもちこんだのは対馬がさきなのか、記紀天皇家がさきなのか、よくわからない」司馬遼太郎氏も首をかしげている。(「街道をゆく」13)

 

私は依然高千穂を歩いたことがあるが、大和の記紀神話と田舎のローカルな神話とが奇妙に符合しており、どう考えたらいいのか、頭が混乱した。今回もまた同じ感慨である。国境の神々が、記紀神話の神、ひいては天皇家の祖であるのか?

分からない。

私の能力を超えているが、さらにこの島に特異な卜占や、アマテル、ツキミの神々、そして日本神話の最高神ともいえるタマミムスビの神をたずねて、まだ少し妄想を重ねなければならなそうだ。

 

*1 大林太良 「神話の話」講談社学術文庫