アマテル、ツキヨミ、ムスビの神は壱岐対馬からか?

先にワタヅミ神社にヤマヒコ、タマヨリヒメ神話の世界を見てきたが、さらに国の誕生神話に類似する伝説を残す神社が壱岐対馬にはある。それは日の神のアマテル神社と月の神の月読神社、そしてムスビの神の神社である。

 

日本書紀では、イザナギイザナミに追われて冥界から帰還し、禊をした折に左目から天照大神、右目から月読命、鼻から素戔嗚命が生まれたとしている。天照は高天の原を、月読みは海を、素戔嗚は天下を治めることとされたが、しかし(一書)では、月読みは保食神を殺したため、天照は昼を、月読みは夜に住むこととなったとしている。

これらの神が、壱岐対馬に古くから鎮座しているというのだ。

 

対馬の阿麻氐留(アマテル)神社を訪ねた。

道路の付け替えにより、参道が国道382号脇から急な登りになっていた。社殿は写真のとおり村の社の態で、とても重要な神社とは見えなかった。

すぐそばが先日タモリのテレビ番組に取材された「小舟越」で、対馬の島の東西をわずか数十mほどで横断する地峡部。小舟はそこを引いて越し、大船は積み荷を降ろし乗り換え、遣唐使もここで下船し反対側の西の浦に出てからまた出航したと書かれている。神社は要衝の地にあったと思える。

 



一方、壱岐の月読み神社もまた道路の脇で改変を受けたようだ。現在は芦辺町国分に鎮座する。当社もまた村の神社程度の設えで、祭りの茅の輪がまだ残され里の人がたむろしていた。ここも橘三喜によって「山の神」と称され社殿もなかった場所が比定されたものという。

 

だがこの両社は歴史的にも重要で、日本書紀顕宗天皇三年の条に、こんな話が載っている。

阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、任那に使いで赴くとき「月の神」が人に憑いて「わが祖先、高皇産霊(たかみむすひのみこと)は天地をつくった功績がある。田地を奉れば、慶福が得られるだろう」といった。これを天皇に告げて、山城の国の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉った。そして壱岐の県主の祖先の、押見宿祢が祀り仕えた。

後日さらに続けて、今度は「日の神」が人に憑いて「倭の磐余(いわれ)の田を、わが祖先の高皇産霊に奉れ」というので、田14町を奉った。そして対馬の下県直がこれを祀り仕えた。磐余は奈良県桜井市、大和政権誕生の地である。

この条文は何を意味しているのか。永留氏の説くところを聞いてみよう。

「この月神こそ壱岐の月読み神社の祭神とみられる。日神の託宣は、対馬にある阿麻氐留(あまてる)神社の祭神とみられ、この日月両神がわが祖と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)とみられることから、おそらく対馬の古族は日神を祀り、壱岐の古族は月神を祀っていたことが知られ、それは亀卜と関係していたものと見られる。」(*1)

対馬では、「人々は天ノ神を祀ることを大切にしていた。古代中国の王朝で天帝を祀ったように、対馬の古代豪族は日子と称し、天ノ神を祀り亀卜を行った。」(*2)

また山城国(京都)に土地を献じたことは、壱岐県主の一族が中央に出て、朝廷の卜部となったことから、その祭祀を畿内に遷したときの所伝とみられる」

「なお私見では、日本神話の名神天照る神(あまてる)は対馬、月読み神は壱岐を本祀としたもので、ムスビ(皇産霊)の神も二島にあり、日本神話の形成時に卜部が重要な役割を果たしたものと思われる」と、こちらが本貫だろうとしている。

 

なぜ本来壱岐対馬に坐ます神々が、畿内の大和政権下に分祀され皇祖神話に取り込まれていった。それには卜部の影響があったといわれる。

 

壱岐対馬の卜部

律令制度は、日本が中国に倣って作り上げた国家の仕組みで奈良時代養老律令でほぼ整理を終わったという。この中に神祇官という機関が設置されているが、それは中国にはない特徴だという。神祇官は朝廷の祭事や各地の神社を管理したが、その中に占い師、卜部がおかれ、亀甲を用いて天皇の健康や祭りに関する占いをして神意を伺っていた。この卜部には、壱岐5人・対馬10人・伊豆5が任じられていた。壱岐も伊豆も元来は対馬の卜部の一族から出たものと見られているという。

卜占は、殷の時代に盛んにおこなわれたが、「朝鮮諸国には確実な亀卜の資料はない」ので対馬にどのように伝わったのかは、不明のようだ。(*3)

古い時代に大陸から、卜占の技術を持った人たちが渡来し、辺境の対馬でその文化を伝え維持した。そして対馬では明治維新まで卜占の歴史は続いていたという。殷は紀元前1000年頃滅んだ国で甲骨文字を残した国である。その時代から連綿と続いていたとは奇跡としかいいようがない。

 

壱岐対馬の卜部がなぜ大和に進出したのか。それは卜占が先端的な知識であり、神の真意を伺う正しい方法と考えられていたからに違いない。政治もこの卜占に従って行われなければならなかった。大和政権はこのような優れた神々を選んで皇祖と結び付け換骨奪胎して皇祖神話を作製し国家の祭祀を整備したのだろう。

だが進出というよりむしろ神と祭祀権を差し出すということは、部族の服従を意味していたととるべきなのだと思われる。そして卜部氏は大和政権の配下となったのだろう。

 

私は壱岐一支国博物館で、動物の肩骨を焼く卜占の実物を見ることができた。想像したものより小さかった。だが亀の占い、亀卜の展示は一つだけで私にはその方法はよく理解できなかった。対馬の博物館は、残念ながら休館日。

 

永留氏は次のような興味ある話を紹介している。(*4)

中国古代の古都(安陽、洛陽、長安など)が「およそ北緯34度半の線上にあり、この線を東に延長した線上に、日本の古代王朝の発祥の地である河内、南大和があり、その線の両端に卜部らの本国対馬と伊豆がある」という説だ。そして、中国では卜占によって都を定めた記事があるので、日本神話においても博識な卜占によって橿原の地が選定されたに違いない、と推察している。卜占をした人々は天文学的な知識も持つ知識階級だったことがよく分かる。

 

では天皇家の祖の伊勢の天照大神対馬の神社の神、そのものだったのだろうか。

だが大和朝廷記紀神話は、壱岐対馬の日と月の神信仰をそのまま持ち込んでつくられた、という結論には直結しないという人もいる。

松前健氏は「日本の神々」(中公新書)において、アマテラス、アマテルという神について、畿内及び周辺地区に「天照御魂神、(あまてるみたまのかみ)もしくは天照神(あまてるかみ)という名の神を祀る神社が随所に見える」として、これらは、伊勢の天照大神とは別の日の神であること。男性神格であること。尾張氏が奉戴したものが多く、一部は対馬系であること。いずれも海人族にゆかりの神であることなどを唱えている。すなわち日の神信仰は各地にあったということだ。

「この天照御魂神は、皇祖天照大神の原型(プロトタイプ)の一つであり、また事実後世に天照大神を祀る社であるとされたものも、古くはこの神を祀っていたものが多い」として「天照御魂神→天照大神というコース」については今後も研究が必要だと慎重に説いている。簡単ではないようだ。(*5)

 

ムスビの神

日月両神が、わが祖と呼んだ高皇産霊は、対馬高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)と言われている。ムスビの神とは、古事記の冒頭に出てくる造化の三神の一人で最高神である。ムスビとは本来呪術的意味のある言葉で、縁結び、ムスコ・ムスメ、オムスビなどの言葉があるが、「ムスビとは、霊魂を鎮守することによって神を出現させること」と折口信夫は説いているという。(*6)

ところで今日の世間一般では,皇祖神(天皇家の祖先神)を天照大神(アマテラスオオミカミ)とする観念が流布しているが,記紀の伝承群を精査すると本来の皇祖神はこのタカミムスヒであり,アマテラスがそこに位置づけられてくるのは,比較的記紀成立に近い時期と思われる。(*7)

そしてこの神こそ本来の皇祖神だという考え方もあるという。

 

対馬の高御魂

神社は、現在、豆酘(つつ)の多久頭魂(たくずたま)神社の境内に鎮座している。タイトなスケジュールの中で、参拝することができた。

豆酘への道路は道を間違えたと思うほどの山道で、まだまだ隣部落に行くにも大変そうな険しい地形である。車がぎりぎりの狭い村の道を行くと、鳥居が見えた。私はこの鳥居をくぐり参道を歩きはじめると、急に何か深閑とした感覚に心が震えた。

私が霊感に優れていることは、全くないのだが。(因みにこれまでこうした感覚を感じたのは、大山祇神社(伊予:大三島)籠神社の奥宮(丹後:天橋立)の二社)

高御魂(たかみむすび)神社は、やはり質素な、むしろさびれた社殿でうっそうと茂った広葉樹林のくらぼったい森の中にあった。これが記紀神話に出てくる造化の最高神だと感じさせる豪華さは何もなかった。

 

永留氏は、

日本の皇室神話でも天皇を日ノ神の裔と伝え、その系譜は、

高皇産霊尊(たかみむすび)―天照大神(日神)―日子 となり、

これは対馬の古代豪族の

高御魂神(たかみむすび)―天照神(天日神)―日子 という系譜に極めて近く、共通の根より発した所伝に違いない。(*2)

として、対馬を中継ぎとして古代中国の祭典の古俗が日本の王朝祭祀に通じたのだとしている。

 

いつの頃か高度な抽象的、思弁的な神が卜占の技術とともに、大陸から対馬に到達し、さらに通過して大和に行きついたのだと思われる。

 

こうした神社を巡っていると、私は、対馬にまだ古代神の名残が燻っているような思いにとらわれ、自己満足レベルであるが、一時、古代に思いを遊ばせることができた。

対馬の神社にはいろいろ複雑な要素があり、一度の一の宮巡りではとても理解できるものではない。(対馬に特徴的な天道信仰やソトの古俗なども興味深いが、とても手に負えないので、今回は敬遠しておきたい。)

 

なお、今回の対馬の旅では、対馬観光案内所「ふれあい処つしま」に立ち寄ったときにいただいた資料が大変役に立った。特に『対馬神社ガイドブック』(対馬観光物産協会発行)や砲台の資料がコンパクトかつ要領を得ていて重宝した。また石屋根の資料などもいただくなど、懇切なおもてなしを受けたので、感謝して記録しておきたい。

 

参考

*1 永留久恵 「月読神社」『日本の神々』1 白水社

*2 同 「阿麻氐留神社」 

*3 永留久恵「古代日本と対馬」大和書房

*4 永留久恵「古代日本と対馬」大和書房167p (古代王権と亀卜)

*5 松前健 「日本の神々」中公新書

*6 永留久恵 「高御魂神社」 『日本の神々』1 白水社

*7 朝日日本歴史人物事典「高皇産霊尊」の解説