一の宮巡詣記(66番) 壱岐の天手長男神社

天手長男神社 (壱岐

所在地 郷ノ浦田中触字鉢形山

祭神 天忍穂耳尊天手力男命、天鈿女命

参拝日 令和4年10月18日

 

 

 

男4人で、壱岐対馬を3泊4日で巡った。

博多港を出るとうねりは高かったが、ジェットホイルは約1時間で壱岐の芦辺に着船した。遣唐使などは一日かかっていたコースである。

郷ノ浦で名物の硬い豆腐を食べ、さて離島の旅の始まりである。

 

壱岐一の宮は、天手長男神社とされている。これで「たながお」と読むようだ。

鎮座地は、壱岐を貫く国道382号の柳田の信号近くから100mほど入った郷ノ浦田中触字鉢形山。名の如くの小山で高さ30mほどはあるだろうか。周りでは田んぼの刈りとりが始まっている。少し離れた場所に、向かい合うようにの天手長比売神社が見えていた。よくある夫婦の形の神社と思われた。

(隣に見えた天手長比売神社)

 

丘の下に車を停めて登る。

荒れている、という記事などもあったが、一応上まで道があり、最近の神社ブームも影響してか神社脇には駐車場も新しく整備されていた。だが社殿はカーキ色にペンキが塗られ、それが醜くはげかかっている。もちろん社に人も居ないので、御朱印は賽銭箱の横に置いてあり、お金を入れて頂いた。

神社を巡詣していると、神社を維持していくのは至難なことだと、将来が心配になる。集落は人口が減り、多分祭りもままならないだろう。

 

さて、延喜式に記載された式内社は、壱岐では24座、対馬は29座で、他の西国に比べて異常に多い。この島にある社が、古代にはいかに中央政権に重要視されていたが分かろうというものだ。

しかし時代が下がり江戸時代にもなると、その多くが所在不確定になってしまっていたようだ。延宝4年(1676)平戸藩主は国学者の橘三喜を壱岐に派遣して式内社の調査を命じた。彼は島内をくまなく巡り、荒れていたこの場所に古代の遺物などが出たことから、この場所を天手長男神社の鎮座地と比定したという。その後この場所は一の宮として整備されたようだ。

だが後世の研究により彼の推察は正確ではなかったことが明らかにされてきている。現在は、芦辺町湯岳の興の触にある興神社とする説が有力だという。興とは国府のことだと言われている。

とは言え本来の一の宮の場所ではなくても、古来聖地であったことは間違いが無いようで、この丘から出土した石造弥勒如来坐像は国指定重文となっているほど貴重なものだ。

 

この社には、天の手長男神社、天の手長比売神社、物部の布都神社の三社が合祀されており、メインの天の手長男神社の現在の祭神は、天忍穂耳尊天手力男命、天鈿女命としているが、これはのちの付会とみられ、本来の神名は、天手長男、天手長比売のはずである。この神名は他国に例がなく、壱岐の固有の神であり、おそらく壱岐の古族(壱岐直、卜部)の祭神だったに違いない。」*1 と、対馬の研究家永富久恵氏は解説する。

 

それにしても手長というのは、一体なにを意味しているのだろうか。

永富久恵氏によれば、神功皇后新羅征討に際して宗像神が「御手長」を振って敵を翻弄したと古書(*2)にあり、また「御手長」というのは「異国征伐ノ御旗竿也」と注釈があるという。どうやら戦の時の旗らしい。おそらく軍旗を勇ましく振るった人物・部族が旗を奉戴しつつ祖先を崇めたものではなかろうか。それが、卜部だった古代の壱岐氏だった。と考えられている。この時代はまだ、日本国という意識は希薄だったはずで、民族的にも新羅百済、倭など入り混じった状態であったに違いない。

 

旗といえば幡(はた)であり、八幡信仰を連想させる。実際対馬一の宮といわれる海神神社は木坂八幡宮と称され、神功皇后三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を納めたことに由来するという社伝がある。

手長とは、八幡と似通ったイメージなのかもしれない。

 

また、これで連想するのは、比礼(ひれ)=スカーフである。

但馬の国の出石神社には祭神として、振浪比礼(なみふるひれ)、切浪比礼(なみきるひれ)、振風比礼(かぜふるひれ)、切風比礼(かぜきるひれ)が祀られている。比礼(ひれ)とは古代に女性が肩に掛け両側に垂らした薄い布で、比礼を振ると災いを払い去る呪力があると考えられていた。これもまた韓国から渡来したツヌガノアラシトという神の由来譚だ。また古事記には大国主命が蛇、ムカデの穴倉に入れられたときに、須勢理毘売命(すせりびめのみこと)から渡された比礼を振って退散させたエピソードがある。このように邪霊を払う呪物として用いられ、巫女はこの布に全霊を傾けて振り祈ったのだろう。旗は呪物であり旗を振ることが敵調伏の呪術だったのかもしれない。

 (「山海経」にある手長の国人)

だが、出雲神話スサノオヤマタノオロチを退治し娘を助けるが、その両親が、アシナヅチ(足長)、テナヅチ(手長)という地方の夫婦神であった。また手長神社が長野県の諏訪に存在する。諏訪は海人にゆかりが深い。大和にはナガスネヒコもいたし、飛騨には両面宿儺という二人合体神もいた。手長を文字通り手が長い異様な異邦人と考えれば、西域から朝鮮を経て渡ってきた系統の有力者であった、かもしれない。そんな妄想も素人には許されるだろう。

 

壱岐対馬は、いうまでもなく白村江の戦い元寇、文禄慶長の役日露戦争と、国境故に大きな戦乱の舞台となってきた。国境に近いこの地を代表する一の宮が、戦の旗を祀る神社だということは、地政学的に必然なのかもしれない。

 

壱岐では、月読み神社、住吉神社、6世紀後半~7世紀前半頃に築造された国指定史跡「掛木古墳」、原の辻遺跡などを見て回った。原の辻遺跡は再現家屋も傷んでいて、予算の無さが感じられ痛々しくさえあった。

月読み神社、そして古代の卜占は別項を起こしたい。

 

*1 「壱岐」永富久恵 『日本の神々』1 白水社 

*2 「宗像大菩薩縁起」