対馬の石は面白い

防人の積みし石なり北西風(アナジ)吹く

あなじ、とは対馬でいう冬の北西風のこと。対馬は風が強い。)

金田城

対馬の金田城は、663年に白村江の戦いに大敗した大和政権が、防衛のために急造した山城である。山頂を取り巻くように石を積む朝鮮式なので、百済の軍人が関与したのだろうと思われる。東国の防人たちが17人配備されていたらしい。その掘立小屋あとが残っていた。

対馬の旅の半日、金田城の山歩きに挑戦した。コースタイム約3時間の、怠惰な私にとってはきついコースだった。随所に現れる石垣は、一つ一つの石はそれほどの大きさではなく、防人たちも手で運んだのかと思われた。それにしてもこの陣地が実際に用をなすものだったのか、理解しにくいが、その巨大さから唐が攻めてくるという恐怖心の大きさは感じられる。

276mの山頂には明治時代に築いた砲台跡があったが、荒れていた。しかし浅茅湾の眺望は絶景というに値するものだった。

 



厳原の石垣

厳原の街に入ると直ぐに、素晴らしい石垣が随所に現れて驚いた。石は、他所では見かけない錆びかかった鉄のような変化にとんだ色をしていて、それらが組み合わさると、石垣はまるで抽象画の大画面のようだった。砂岩や粘板岩、石英斑岩などが材料らしい。屋敷の石垣や防火壁、敷石などが実に美しい。写真は厳原の八幡宮

 

 

(写真はE氏から借用)

石屋根

西海岸の椎根集落の石屋根を見にいって、驚いた。文字通り屋根が粘板岩の大きな板状の石を重ねて載せている。屋根の棟には心配になる程高く重ねてある。これは強風の対策のためであり庶民は瓦を禁止されていたからだとのこと。

板倉ともいわれ、壁は厚い板。柱は見たところケヤキなどの丈夫な材でしかも太い。内部は見られなかったが、何本ものアーチ形の梁が支えているという。高床式で中は2,3の部屋に仕切られ、それぞれ米麦そのた救荒食物、衣類布団、什器等を保存したという。椎根では10棟以上まとまっていたが一戸ずつ別の家のものだという。

厳原の観光案内所「ふれあい処つしま」に立ち寄ったときに、ご親切にも対馬の写真家仁位孝雄氏の「「石屋根の里・対馬」について」という貴重なレポートをいただいた。そのレポートによれば1978年に245戸あった石屋根は2004年には62戸に減少したという。むべなるかな。

 

藻小屋

木坂の海神神社の浜にあったものである。

これは石壁の建造物であり、海藻の肥料小屋で、晩春に藻を蓄えて肥料としたものらしい。写真の藻小屋は屋根も本来石屋根だったようだが、改修されていて、幾分観光用になっているようだ。が、内部は荒れていた。これも観光客にとっては、絵になる建造物であるが、すでに残るものもほとんでなく使命を終えている。

中国福建省や台湾、済州島に似た様式があり、文化の交流があったものと伺われる、と法政大学の漆原和子氏は、「対馬における屋敷囲いとしての石垣」で指摘している。

 

石だけを見に来ても対馬は面白いかもしれない。

 

(参考)

田吉六 「対馬の庶民誌」 葦書房

仁位孝雄「「石屋根の里・対馬」について」 2022.3.31

原和子、「対馬における屋敷囲いとしての石垣」法政大学学術機関リポジトリ  2007.3.31