曾良(俳人)の墓

壱岐の宿なるほど硬し新豆腐

 

河合曾良の墓)

曾良の墓が、壱岐にあると知ったのは司馬遼太郎の「街道をゆく」からだった。

司馬遼太郎によれば、曾良芭蕉の亡きあと、幕府の巡見使の一員となって壱岐にわたり、島の北端にある勝本の港の海産物問屋中藤家に泊まった。そこで曾良は病に伏してそのまま亡くなった。墓はその中藤家の墓地にある。とのこと。

勝本には城跡が残っている。これは秀吉が朝鮮出兵の折に急造したものらしい。穴太衆の石垣が残っていて国指定の文化財である。展望台からは遠く対馬が見渡せた。

墓はその一角にあるというので四人で捜し歩いたのだが、なかなか見つからない。E氏は荒れ道を先導し、S氏はGPSを使って、わずかな標識を辿って迷いながら歩き、ようやく見出した。港を見下ろす少し暗い場所だった。

特に感慨は沸かなかった。

(勝本城址

 

曾良芭蕉の「奥の細道」に同行した人だが、それまで芭蕉の台所などこまごまと面倒を見てくれていたようだ。細かな心配りのできる人だったのだろう。芭蕉ももちろん心強かったに違いない。

奥の細道では、加賀の大聖寺というところで曾良「腹を病みて・・・先立ちて行く」と書かれているので、そこから芭蕉は独りになったが、人気俳諧師なのでゆく先々もてなしを受けて困ることはないようだ。

芭蕉「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」というとき、何かしら舞台で漂泊を演じている感じがしてしまうのは、私だけだろうか。それに比して壱岐で死んだ曾良は、寂しい旅人の感じがする。

白河の関跡には芭蕉曾良の像があった)

 

 

折角なので、手向けの気持ちもこめて「奥の細道」に目をとおし、曾良の句を拾ってみると、意外に多くあるので驚いた。

剃捨てて黒髪山に衣更  (黒髪山

かさねとは八重撫子の名なるべし (那須野)

卯の花をかざしに関の晴れ着哉 (白河の関

松島や鶴に身をかれほととぎす (雄島の磯 :松島)

卯の花に兼房みゆる白毛かな (平泉)

蚕飼(こがひ)する人は古代のすがたかな (尾花沢)

湯殿山銭ふむ道のなみだかな (月山・湯殿山

  祭礼
象潟や料理何くふ神祭 (象潟)

  岩上にみさごの巣を見る

波こえぬ契ありてやみさごの巣 (象潟)

ゆきゝてたふれ伏すとも萩の原 (大聖寺

夜もすがら秋風聞くやうらの山 ( 〃 )

真面目に拾ってみたら、11句もあった。ちなみに芭蕉の句は50句だ。

読んでみると機知が目立ち、今一つ深いところに届かない感じがする。情より知の信州人だったのかもしれないと思わせる。

中では大聖寺での「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の秋」はいい句だと思う、司馬遼太郎もそう評していた。文化13年(1816)に発行された「俳家奇人談 巻の中」(岩波文庫)をみると、曾良も紹介されていて、やはりこの句を代表として掲載している。芭蕉「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」よりも、ポーズが感じられないので私は好感がもてる。