旅に 病 ( やん ) で夢は枯野をかけ 廻 ( めぐ ) る (芭蕉)
夢に 病 ( やん ) で旅は枯野をかけ 廻 ( めぐ ) る (替え句)
芭蕉に辞世の句は無いといわれるが、これは死の4日前の病床での句であり実質最後の句となった。「旅に病み、夢うつつの中で、彼は枯野をさ迷い歩いている自分の姿を見た。50年の生涯も、いわば枯野の旅のごときものであった。彼は夢においてさえ、何かを求め、歩き続けている、自分の妄執の深さを見る。」と、山本健吉氏は解釈している。
しかし、ならばこそ、この句の「夢」と「旅」とは入れ替えるべきではなかったか。
パロディーの替え句のごとく、芭蕉は蕉風俳句の確立という夢に全霊侵され、それをもとめる旅は迷子のように枯野をぐるぐる廻りするがごとく厳しいものだったのだ。
芭蕉に、妄想めいた私の替え句をみせたらなんと言うだろう。
さて、
寺の案内書きによれば、
義仲とは平家打倒の先駆けとなった木曽義仲である。頼朝や義経とはたしか従兄弟に当たるが、結局彼らに討たれる。それがこの地であった。その後尼僧が現れ義仲の墓所のほとりに庵を結び供養したのが、名を隠した巴午前だったといわれる。長い歴史の中でこの寺・庵は何度も荒廃の憂き目にあったが、戦後篤志家の寄付により現在の体裁を整えたのだということだ。たくさんの句碑があり、芭蕉の句碑も、枯野も含め3つある。
墓小さし芭蕉青葉はのったりと
(義仲寺)
その遺志にしたがって、其角の「芭蕉翁終焉記」によれば
12日の夜、芭蕉の遺骸を「物打かけ、夜ひそかに長櫃に入て、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきのせ、去來・乙州・丈草・支考・惟然・正秀・木節・呑舟(寿貞が子)次郎兵衛、予とてもに十人」で淀川で伏見まではこび、「ふしみより義仲寺にうつして、」
14日に「葬禮.義信を盡し、・・・此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳来るもの三百余人也。・・・門前の少引入たる所に、かたのごと木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。」ということのようだ。招かない者も300人も集まったのだという、芭蕉の人望・人気が良くわかる。
なお、寺には「翁堂」があり、正面に芭蕉の象が据えられている。そして天井画は伊藤若冲の「四季花卉の図」(レプリカ)である。これは京都の石峰寺から廃仏毀釈の頃移したものだという。覗きこんでみたが痛みが激しくて、残念ながら鑑賞には堪えそうもない。
(石峰寺は次を参考