安倍城という南北朝の夢の跡 

友人の誘いを受けて久しぶりに近くの山に登った。静岡市街地から西にみえる標高435mの安倍城跡である。今回は西ヶ谷からきつい坂を登った。結構ばてた。

(安倍城址 独立峰の趣がある)

ピークには三等三角点があるがこの山に名前は特に無いのだろうか、「安倍城跡」と呼ばれている。山頂は広く整備され立派な碑があり、南北朝の時代に狩野貞長の中核的城だったこと、彼は南朝に与して今川と対峙し、ここには宗良(むねなが)親王が入城したことがあったことなどが印されている。700年ほど昔の夢の跡である。

以前駿河七観音で触れたことのある「建穂寺」は、この山の西の麓にあたり狩野氏の支配地である。建穂寺は当時はおそらく駿河指折りの大寺院群だっただろう。狩野氏の基盤も相当強固であったに違いない。

(参考:建穂寺 

駿河七観音巡り-5 建穂寺(たきょうじ) - 続 曇りのち快晴

 

山頂からは、静岡の平野が一望で素晴らしい眺望。しかし親王が見下ろした静岡市街地は指呼の間で、そこは敵北朝方の今川氏だった。蝸牛角上の感がする。富士山も白い山頂を見せている。

(手前安倍川の向こうに静岡市街地、さらに遠くに日本平、遠く霞んで伊豆半島が見えている)

宗良親王と言えば、建武の新政を行った後醍醐天皇の皇子で、その後南北朝時代を迎えると軍の旗頭として諸国を転戦した南朝の皇子である。一時浜名湖の奥、井伊谷を拠点として行動していたが、中央構造線沿いに北上し信濃、そして越後の寺泊にも赴き戦を起こしている。しかし南朝方の劣勢は回復しがたく、晩年は伊那谷大鹿村の山奥に居を構えて、この地で亡くなっている。信濃では宗良親王の人気は底堅いものがあるようだ。

私も大鹿村信濃宮、そしてさらに山奥の御所平まで訪ねたことがあった。もう大部昔のことである。しかしそこは想像以上の山奥であり、道はⅤ字谷を辿り野猿と一緒に走った記憶がよみがえる。

また親王は優れた歌人でもあり李花集という歌集を残されている。

(25年ほど前の大鹿村信濃宮)

今回昇った安倍城の北側に内牧の集落があり、ここに狩野貞長の墓がある。また貞長の館であったと思われる内牧城があり、それは現在新東名高速道路の巨大な橋脚で喪失しているという。ついでなので、貞長の墓と内牧城跡を訪ねてみた。

(狩野貞長の墓といわれている)

内牧城跡は、民地であるが、碑が建てられていた。個人が建てたのだろうか。それには内牧城の由緒と裏面には、李花集の次の詞歌が刻まれていた。碑の高い格調に感じ入った。

駿河国貞長が許に興良親王あるよし聞きて暫し立ちよりはべりしに、富士の煙もやどのあさげに立ちならぶ心地して、まことにめずらしげなきやうなれど、都の人はいかに見はやしなましと先づ思ひ出でらるれば、山の姿など絵にかきて爲定卿の許へ遣わすとて

 みせばやな語らばさらに言の葉も及ばぬ富士の高根なりけり

返し

 思ひやるかたさへぞなき言の葉の及ばぬ富士と聞くにつけても

 

李花集を読んだことはなかったが、さわりを目にしただけだが前文などに歌の事情が書かれていて、歌物語のようで面白い。

 

上記の歌の次には、親王駿河を発つこととなって、貞長などが夜もすがら名残惜しみ、泣いたりするので哀れに思ってそこの壁に書いた、として

身をいかにするがの海の沖の浪よるべなしとて立ち離れなば

 

これまであまり気にもしなかった城山だったが、意外にも南北朝の匂いが残っていて、我ながら目が曇っていた感じがしたのだった。

 

(参考:李花集 国立国会図書館デジタルコレクション

    「ふるさと古城の旅」水野茂 海馬出版

    マンガで読む浜松ゆかりの偉人「歌人 宗良親王物語」