駿河の七観音に出かける -3 徳願寺(大窪寺)

徳願寺は、静岡市街地から見ると安倍川を挟んで西の方角、352mの山の中腹にある。ふもとの向敷地の集落から歩くと、参道の静かな山道を標高130mほどの寺まで約20分ほどである。山中にポツンとある寺で、ここまで上ると静岡の町が文字通り一望できる。思わず息をのむほどの広々とした風景。手前には安倍川、そして遠方はるかに雪を乗せた富士山が望まれる。

幽境かと思えば、境内の池にはアヒルが泳いでいたり目立つ大きな観音像があったりで、静かではあるが今日的な雰囲気も漂っている。 

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現在は曹洞宗で、大窪山徳願寺が寺名。大窪山は「だいや(あ)さん」と訓んで背後の山の名前でもある。寺の入り口には、本尊は安倍観音の一体、千手千眼観世音菩薩(行基作)。創建は養老年間(717)、現在の徳願寺は、創立は1457年という看板が出ている。今川氏親の生母であり北條早雲の妹(姉?)である北川殿の菩提寺でもある。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200407065126j:plain(北川殿の墓)


しかしこの寺は、元は裏山の山頂付近にあった大窪寺(だいあじ)であったといわれる。

静岡市埋蔵文化財調査報告27、によると、

「古記録によると、元々は徳願寺山山頂付近の字扇松峰(仏平)にあった真言宗の堂(大窪寺?)から千手観音(行基作と伝わるが鎌倉期との説もある)を文明8年(1476)に大段に移し開山。そのご、元禄元年(1688)現在地に移転し、現在に至っている。つまり、宗派は別として、仏平-大段-現在地と寺が移動したわけである。大窪寺が栄えていたことは曽我物語にあるので何らかの原因で荒廃し、今川氏との関連で新たに成立していたことは容易に想像できる。」としている。*1

 

古代においては、真言宗山岳仏教寺院として山頂近くに堂があったという。今も、いかにも山と縁が深そうな佇まいなのである。「大段」とは現在の寺から北に少し上がった場所を言う。中世には、この寺は今川氏の盛衰とかかわって山城としての機能と密接不離であっただろうと思われる。寺のある場所の古い字名が「平城」であることもその歴史を伝えているように思われる。

 

先日、友人と寺の裏山、徳願寺山とも大窪山とも仏平ともいわれる山頂を目指して登った。寺の100mほど北の登り口から山頂までは約35分、喘いで352mの山頂に至ったものの期待する展望はえられなかった。少し伐採してもらえれば人気のスポットになりうるのにもったいない気がする。山頂には大窪寺跡という大きな看板が立てられており、ピークの西側にはやや平らな場所があって、ここを「寺段」と書いている本もある(*2)が、おそらく堂があったとしたら、素人目にもこの付近だと思われた。

f:id:zukunashitosan0420:20200407064729j:plain(352mの仏平)

奈良から平安時代にはどんな様子だったのだろう。

「山岳を神、霊の住みかとし、山岳そのものを神とする自然崇拝は、とおく原始社会にさかのぼる。」「奈良時代には、土着の山岳修行者に加えて、多くの私度僧(官許なしに得度した僧)や聖が山岳で修業し、その呪力を用いて民間で呪術祈祷を行った。

平安時代に入ると、山岳仏教が盛んになり、比叡山高野山をはじめ、多数の山岳寺院がつくられて、多くの僧侶が山岳修行に励むようになった。密教では、山岳に籠って修行した僧の加持祈祷は、とくに効験があるとして重んじられた。」*3

 

この寺の開基も、こうした時代であったろうか。おそらく朝廷の構えた国分寺などとは違って素性の分からない在野な宗教者たちがたむろしていたのではなかろうか。真言宗の僧侶なのか、それとも修験者なのか、いずれも山岳仏教の徒であり、そう違いはなかったようにも想像されるが、どうなのだろう。

彼らはこの山中を、特別な力を身につけようと駆け巡り肉体を苛め抜いたのかもしれない。そして静岡の町(安倍の市)に下りては祈祷をしたり薬草を売ったり病気治療をしたのだろうか。 

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(静岡の市街地の向こうに徳願寺の山並みを遠望する)

私たちは、このピークからさらに西の尾根を勧昌院坂まで歩いた。途中に梵天山というピークを越え、急激に下って勧昌院坂に至る。約1時間の非常に厳しい尾根道であった。勧昌院坂は古代の東海街道だったともいわれる峠であり、丸子方面から駿府の平野に出るルートの一つである。峠から東に下ると牧ケ谷部落を経、木枯らしの森を見ながら安倍川を渡渉し、羽鳥部落に至る。羽鳥は渡来の秦氏が開いた土地といわれ、ここにはまた七観音の一つ建穂寺があった。さらにその背後の山を越えると、七観音の増善寺である。

 

こうして尾根筋を歩いてみると、ある観念が頭をよぎる。

それは、上記の山の尾根道は、七観音を繋ぐ古代山岳仏教の修行の道、また僧侶たちの交流のルートではなかったか、ということだ。それゆえ、これが学問、文化の往来した道でもあったかもしれない。だからこそ東海道を外れた「木枯らしの森」が都で歌枕になるほどもてはやされたのだとも想像される。徳願寺山単体の山が修行の場であったわけではなく、七観音を結ぶ回峰のようなルートを想像してもいいかもしれない。

とすると今度は、建穂寺から慈悲山増善寺へのルートを確認しないといけなくなりそうだ。

駿河の平野を取り巻く尾根筋に、古代の山岳仏教のネットワークが張られていた。僧たちはこの山中で大声で読経していた。それは中世になると政争に取り込まれて、徐々に山城化していく。さらに僧たちもまた政治と結びつきある者は武装化していく。今川氏とも大きな繋がりをもって盛衰を経験する。この山中にそんな思い長い歴史があったのかもしれないと想像すると、こんな見慣れた山がまた別の様相を帯びて見えてくる。

 

*1 静岡市埋蔵文化財調査報告27 138p

*2 「ふるさと古城の旅」水野茂 海馬出版

*3 「日本宗教事典」 村上重良 講談社学術文庫 164p他