駿河七観音を巡るー7 鉄舟寺(久能寺)

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私の七観音巡りも7番目、鉄舟寺でいよいよ最後を迎える。

友人からの情報で、毎月16日に定期清掃している人たちがいて、その折に観音堂の内部が見られるというので出かけた。寺は日本平丘陵の東の端にあるが、観音堂は標高約50mの場所にあり、本堂脇から急な石段が続いている。息を切らして登ると、清水港を望む抜群の眺めがまっていて、富士山が広くすそ野を伸ばし、手前に清水の港が広がっている。思わず知らず深呼吸、そしてしばらく立ち止まって見とれてしまった。

 

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(この写真は2月、日本平から  ほぼ同様の景観である)

 

お堂も実に立派で、何十人も入れる広さがある。60年に一度御開帳という千手観音は今京都の方に修理に出ていて留守なのだそうだが、奈良から平安時代の作で、像高も155㎝と大きいものらしい。ただし材は針葉樹であり、伝説の行基が彫ったというクスではないようだ。堂奥脇には仏を守る二十八部衆が所狭しとひしめいている。いずれも古いものだ。

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掃除をされていたのは、二人のおばさんだった。伺うと、ボランティアが集まって毎月15,16日と掃除をし、16日と17日は経をあげるのだそうだ。今日17日は

彼岸の入りでもあり皆さんお忙しくて、お出でにならないようです。

まだ下手ですみませんね、

と仰られるが、私も経を聞かせてもらった。経は、般若心経と観音経の一部、それから地元の白隠さんの和讃だった。私もその間じっと瞑想?して、うとうとしていた。経の後お茶などもいただいて、お堂の話などを伺って、楽しい時間を過ごさせていただいた。

 これまで七観音を巡ってきたが、観音様へ経をあげる現場には、初めて出遭った。しかも在家の人がこうしてお堂を守って皆さんで経をあげているというのも初めてだった。信仰の場はこうして守られ、名もなき仏像たちもこうして保護され伝えられてきたのだなと、何か心にしみるものを感じてしまった。

 

さて、この寺の歴史は少し複雑なので、簡単にメモをしておきたい。鉄舟寺の前身は久能寺であり、現在の久能山東照宮がある峻険な丘陵の上にあった。数キロ離れている。久能寺は建穂寺と並んで中世には駿河を代表する一山であった。山上だけでなく、下の山地や谷にも沢山の寺があり鎌倉時代には、300を超える僧房を抱えていたという記述もあるようだ。戦国時代に甲斐の武田軍が駿河に侵攻し、久能山を山城とするため、1575年に久能寺を現在の鉄舟寺の地に移した。中世には隆盛を誇った寺も、その後江戸時代末には廃れており、明治の初めに旧幕臣であった山岡鉄舟臨済寺から僧を招聘して1883年に寺を再興することとし、そのさい鉄舟寺と改名したと言われる。

鉄舟は180㎝を超す大男で、豪胆。明治維新の江戸無血開城の条件を、西郷隆盛と直接交渉した男である。西郷と勝海舟の会談が良く知られているが、実際は鉄舟がすべて前段で交渉したものだという。境内には鉄舟の像がある。

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また鉄舟寺には、現存最古の国宝である「法華経」が残されている。もちろん久能寺から引き継がれたものである。1142年、崇徳・後白河天皇の母である待賢門院の出家に際して書写されたものという貴重なものである。また源義経の寄贈した横笛「薄墨の笛」も伝わっている。田舎の寺としては破格の宝物である。それだけ久能寺の権勢が偲ばれるというものだ。

 

久能寺といい建穂寺といい、一山をなしていた大寺院群は現在、細々と脈絡を保っている。

そして駿河七観音を巡る人もほとんどいないのだろう。ネットで瞬時に世界の情報を知れる時代ではあるが、実は案外足元のことは分からないものだ。自分の足で歩いた七観音の情報、そしてそれに関して思いめぐらす時間は、私にとって貴重で楽しいものとなった。

 

旧東海道筋に、「久能寺観音堂道」という道しるべが残っている。1778年の建立である。静岡鉄道狐ヶ崎駅を降りて、旧東海道を50mほど東に行ったところにある。東海道を歩いた人々がこの標を見て、

ちょっと遠回りになるが、このお堂に寄って、久能の東照宮をまわって行こうか?などと思案したのかもしれない。f:id:zukunashitosan0420:20210319164745j:plain