駿河七観音巡りー6 平澤寺 

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             (観音堂

日本平丘陵の西斜面にたつ静岡県立美術館の南側の沢を上ると、標高約100mのところに平澤寺がある。この沢は、さらに上ると県が荒れた里山を整備したゆうきの森が広がっていて、家族連れの姿がいつも見られるのどかな場所である。

平澤寺を訪れたのは、秋も深い季節で畑には柿が色づいていた。この辺りは柿が多いようだ。

 

山門を入り、正面の石段を上ったところにあるお堂が観音堂。中は暗くて見えない。

寺の掲示によれば、行基が710~13年に地蔵尊を彫刻してここに草庵を建てたのが始まりで、ついで718年にのちの聖武天皇の病気治癒を願って駿河国で7体の観音像を刻み、最初の一体をこの平澤寺に安置した、と書かれている。古い寺であることは間違いないのだろう。

のちに今川義元もこの観音を信仰し、参詣の時に休憩する仮殿をつくったほど信仰が篤かった、とも書かれている。徳願寺などのような軍事的な役割はあまりなかったのかもしれないが、位置的には鬼門の方角に近く、そうした意味はあったかもしれない。

2月の節分は盛大に行われ、この地では有名である。(2021年はコロナ禍のためイベントは中止だという)。また観音堂の近くにはペットの霊場もある。

 

境内には役行者や不動の像などが祀られていて、また平沢神社がある。平沢神社については、「明治維新神仏分離令によって、平澤寺にあった12社権現を移して平沢神社とした。この12社権現は昔から平澤寺の霊場鎮守として上の山台地に祀られていた」と記されている。12権現は走湯権現金峰山金剛蔵王、白山大権現などで、修験の神であることが解る。

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            (平沢神社)

やはりここにも山岳修験的な修行の場があったと考えてもいいのだろう。道場はおそらく背後の日本平であり、そこから駿河湾に向かって崩れ落ちる急峻な崖一帯を含むものではなかったか。

崖の先には久能山東照宮があり、日本平山頂からはロープウェイで繋がっている。国宝の神社である。東照宮へは海岸から1,159段の石段を息を切らせて上らなければならない。そこは武田軍が来るまでは久能寺という寺院群が広がっていた場所である。久能寺は中世において駿河を代表する大寺院で、建穂寺と双璧だったといわれている。武田軍は久能寺を現在の鉄舟寺に移し、そのご久能寺は衰退の道をたどり、明治になって鉄舟が再興したという歴史がある。

 

平澤寺から旧久能寺への修行のルートがあったはずだと思うが、さてさて、あの恐ろしい崖をどうやって越えて、どんなルートだったのか、はたして現在たどれることができるのか、興味が湧いてくる。