駿河七観音を巡るー4 増善寺

七観音はいずれも古い寺なので長い歴史の中で性格や役割を変えてきたに違いない。そうした中で私が興味を覚えるのは、山岳宗教という特徴である。いきおい創建時の原始的な信仰や古代の地政に目が向いてしまい中世以降の歴史については関心が向かないが、まあそれはほかの人に任せておきたい。 

さて、今回は増善寺に参拝した。

f:id:zukunashitosan0420:20200426135428j:plain  (慈悲山増善寺)

増善寺は、駿府からは安倍川の対岸に位置する慈悲尾(しいのう)という集落にある。集落は安倍川のいわば入り江のような場所にあり、今でこそ川とは堤防で仕切られその堤防が外との連絡道路となっているのだが、堤防がなかったころは流れが近寄った時など川伝いの行き来は困難となったであろう。両側の山を越えるほかなかったはずだ。従って、この寺を見るときには山からの通路を考える必要がある、と私には思えた。西の山を越えれば、建穂(たきょう)寺という中世から近世には駿河で有数の大寺院群が賑わっていたことも考慮する必要がある。

 

現在の増善寺をメモしておくと、

寺のホームページよれば、創設は723年行基が観音像を安置し、真言宗の寺院として発足。文明十二年(1480)辰応性寅禅師が荒廃していた慈悲寺を曹洞宗として再興。特に今川氏の中興の祖と言われる今川氏親(義元の父)の葬儀を行い、その墓を安置するなど今川氏の庇護を受け、発展した。1671年に現在地に移った。とのこと。

また、境内の掲示には、寺の裏山に南北朝時代の一大城塞網の拠点である安倍城があった。氏親にとって安倍城を控えた自然の要塞の地は、安息の地であった、旨書かれている。その頃は山寺でありまた城でもあったのだろう。

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今川氏親の霊廟 質素である )

先に訪れた徳願寺は氏親の母、北川殿の開山でその墓もあったが、駿府を取り巻く位置といい山腹の地形といい、この増善寺と共通した点が多く今川氏にとって共通の戦略的な意味合いを負わせられていたと推測される。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200426135534j:plain 観音堂

さて、観音堂は本堂の左奥にあって堂前の椿が立派である。本尊は千手観音で、御開帳は2021年2月だというので、期待したい。

だが、私には何か違和感があった。

観音堂はこんな平穏な処にあったはずがない、背後は安倍城址がある急峻な452mの山である。もっとこの山の奥深くにお堂があったに違いない。

 

境内の掲示板を見ていると、イノシシが出るから注意、などと書いてあったが、気が付くと450年前の伽藍の様子を描いたものがあった。それには、現在の寺の位置ではなく沢の奥に寺があったことが解る。そして少し離れた山側に観音堂という記載がある。これだ、これが古い時代の(本来の?)観音堂の場所だ、と見当をつける。

 

後日、観音堂の跡地を確認に出向いた。寺の駐車場から50mほど下がったところに椎の尾神社入口がある。地元の神様だと思われる。社は鳥居から5分ほど登った場所に鎮座していた。さらに安倍城址への荒れた登山道を上ること10分くらいで、めざす観音堂跡地にたどり着いた。尾根の少し平らになった部分であり、左右は切り落としたような急斜面である。石碑が立っていて、礎石らしきものも見えている。展望はなくわずかに若葉の隙間から安倍城址の山頂が望まれる。

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(標高150mほど 礎石らしきものも見えている 誰も来ない)

場所の確認はできたもの、残念ながら私には、ここでどういう人が、どういう修行をしていたのか、どういう生活をしていたのかが、うまくイメージできない。

 跡地から市のハイキングコースの目印を頼りに下りると、余り踏まれていない道だったがなんと寺の現在の観音堂の脇に降り着いた。古い観音堂跡地との繋がりが一瞬かいま見えた気がした。

 

さて、増善寺と山を挟んだ西側に、建穂寺がある。駿河七観音の一つだが、中世・近世と大いに栄えた寺であり、現在も静岡浅間神社の二十日会祭の稚児舞をこの寺が受け持つという大役を担っている。しかし寺自体は明治の廃仏毀釈や火災で消滅してしまった。現在は小さな村のお堂にその寺宝がひっそりと保管されているという波乱の歴史を持った寺である。次回はこの寺を参拝する。

 

春の一日友人と、建穂寺がかつてあった場所に再建されている建穂神社から、裏の山にとりかかり、増善寺を目指した。途中、建穂寺の観音堂跡地が裏山の標高150mほどの場所にあるのを確認した。ここもやはり観音堂は山深くに置かれていたのだ。

 

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(途中のピーク 常住山264m)

コースは標高で260mほどをピークに急峻な尾根道をゆっくり2時間半。標高はないが、山は崩れやすく切り立っている。尾根からの展望はない。極楽峠などと書かれた林道ともクロスした。おそらくこんな道を、かつての修行僧たちは読経しながら歩いたのだろう、などと感情移入しながら喘いだのだった。

 多分この尾根は信仰の道だっただろうと私には思われた。徳願寺から牧ケ谷、木枯らしの森、建穂寺、そして増善寺へと、険しい聖なる道は続いていた。

ただし七観音巡りが始まったのは鎌倉時代といわれるが、そのころ庶民が増善寺に訪れたのは河原づたいのルート、川を渡ってくるルート、それから増善寺の沢からまっすぐ裏山を上り羽鳥の洞慶院に降りるルートだったのではないか。洞慶院へのルートは荒れていて、現在は歩けそうもなかった。 

今後は慈悲尾から東の山を経て、内牧に出るルートを確かめたいと思っている。