紅葉の朝霧高原を歩く

草紅葉富士を背負ってウォーキング

 

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秋の一日、友人と2人で富士山の西麓に広がる朝霧高原を歩いた。麓という部落から田貫湖までの約7.5キロ、実歩行時間3時間。このルートは東海自然歩道にもなっていて、牧場の横の林を抜け、平和そうな長閑な集落をとおり、富士山の清冽な湧水の流れととも歩き、一部は舗装道路もあって、一貫してなだらかな下りであり、体力に不安のあった私にも全く負担がなかった。標高でいえば、830mほどから670mほどに下ったということになる。

 

空は雲一つない、富士山はずっと顔を見せていて、うっすらと雪を残した頂から抉るように山肌を裂いている大沢崩れが異様に生々しく目に入ってくる。

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紅葉が始まっていて、名も知らぬ樹々が微妙に異なった色合いで、赤や黄色、茶色の枝を広げ、秋の日差しにまばゆいほど輝いている。

行程の途中に「陣場の滝」があった。富士山の伏流水が岩盤の中から湧きだし、幾条もの瀑布となっている。有名な「白糸の滝」の規模の小さいものとでも言おうか。けれど閑静で俗化されていないので、なんとも和やかな気分になる。小学生のグループが見学に来て、一時にぎやかな声が響いたがすぐに元の静寂に戻ってしまった。ここでおにぎりを食べる。

 

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こんなに気持ちが長閑になったのは久しぶりだ。自然の中で自然に生きていていいんだよというような、現実を忘れさせ、受容されている気持になってくる。いいウォ-クだった。

 

何かの本にあった感覚に似ているな、と思ったら、思いついたのは国木田独歩の「武蔵野」だった。

独歩はツルゲーネフの自然描写を引用しながら、それを武蔵野に当てはめ自然の、特に白砂清松ではない落葉林の美しさを表現している。夏に武蔵野を訪れたとき、地元のおばあさんが、桜は咲いていないのに何をしに来たのか、と訝しがる場面がある。サクラを愛でるのではなく落葉樹を愛でる美学など、まだまだ一般的ではなかったのだろう。いわば雑木林の発見者ともいえるだろう。そして、こんな風に詠嘆する。

 

林に座っていて日の光のもっとも美しさを感ずるのは、春の末より夏の初めであるが、それは今ここには書くべきでない。その次は黄葉の季節である。なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いていると、澄みわたった大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末葉末に砕け、その美しさいいつくされず。日光とか碓氷とか、天下の名所はともかく、武蔵野のような広い平原の林が隈なく染まって、日の西に傾くとともに一面の火花を放つというも特異の美観ではあるまいか。

 

日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、  

山は暮れ野は黄昏の薄かな (蕪村)

の名句を思いだすだろう。

 

「武蔵野」は明治31年に発表された。正岡子規が盛んに写生をいい、俳句和歌の世界に変革を起こしていた時期である。前時代の観念にとらわれず、ものをしっかり見て、新たな美を発見していく、そういう共通性、時代のうねりのようなものを、子規と独歩の間に見出すことができそうだ。それぞれがどう影響しあったのか、直接はしあってはいなかったのか、その辺のことは調べないとわからないが、興味のある動向である。

ついでながら、この蕪村の句は、虚子の

「遠山に陽のあたりたる枯野かな」

を連想する。虚子の句は明治33年、虚子26歳の作である。虚子は「武蔵野」を読んでいたかもしれない、そんな気がしてくる。

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