祭神 :宇摩志麻遅命(うましまじのみとこ)
参拝日 2019年5月
島根、鳥取を走っていて感ずるのは、車の量が実に少ないということ、信号が無いということだ。そして、高速道路は鳥取道が開通し中国自動車道の佐用から、鳥取に入れるようになった(これは無料)。また大山の西麓を経るルートの米子道は、出雲まで開通している、こちらは有料だ。しかし件の大田市には、まだ東からも西からも高速道路が入ってきていない。したがって、このあたりは国道9号で日本海の荒波を見ながら走るほか無い。(それがいいということもあるが・・・)
大田市の中心部から日本海に背を向け山側に入ること約5,6km、文字通りのどかな田園風景の中に物部神社がある。早朝に神社に着いたので、社務所があく8時半まで境内を散策してのんびりと時間を過ごす。やはり神社は早朝がよい。
神社によっては、早朝からぴりっと身支度を整え、掃き掃除などをしている所もあり、そうした社にはいるとこちらも背筋がぴんと伸びる気がする。だが、そうでないところもある。・・・この神社もまた少し緊張感に欠けるように見受けられた。八時半直前に社務所の巫女が通勤してきて、御朱印を書いてくれた。神官も眠そうに出勤してくるらしい姿が見える。
しかし社のたたずまいは端麗で美しい。背後の八百山の緑はこの時季、命そのものの輝きだ。社伝に依れば、そもそもはご神体である八百山を崇めていた。のちに天皇の勅命により513年に社殿を創建し、たびたびの兵火のあと現存するのは1856年再建になるという。規模は島根県では出雲大社についで2番目、春日造りでは全国一のものだという。
さて、
父神は饒速日命(にぎはやひのみこと)であり、記紀では神武天皇の東征より前に天の磐舟にのって、ヤマトに降り立ち辺りを支配していた王であり、神武に王権を禅譲した王である。ウマシマジは大和王権に忠誠を表し尾張,美濃、越国を平定し、さらに播磨、丹波を経て石見の国に入り、兇賊を平定し、鶴に乗りこの地に降り立ち、八百山が大和の天の香具山に似ていることからこの地に宮殿を造った、と神社の由緒書きは記している。谷川健一氏の「白鳥伝説」にも説かれたように、物部氏は白鳥とのゆかりが深い。ここに現れる鶴もまたそれと同義かもしれない。
物部氏は、上記のように古い血統だが、何かと悲劇に見舞われ正史から隠されているとして、最近は注目されて出版物も多い気がする。上述の神武の東征に対し、奈良に先住していたニギヤハイは、身内のナガスネヒコを誅し神武に服属した。さらに時代が下って、蘇我氏が仏教の導入にを訴えたのに対して反対し、物部守屋は蘇我氏に攻め滅ぼされている。(守屋の廟が四天王寺の片隅にあり、いまだ物部の家僕の末裔がそれを祀っていることは、谷川氏の『四天王寺の鷹』に詳しい。)
(華麗な春日造り)
谷川健一氏は、東遷は2度行われた、として、まず九州の直方市付近の出身である物部氏が2世紀後半にヤマトに進出し、ついで4世紀前半に久留米市付近にあった邪馬台国が東進し、先住の物部を打ち破りヤマトに入ったのだという説を出している。その動機はいずれも中国、朝鮮半島の政情不安定という国際情勢を受け
たものだろうとしている。
物部氏は軍事・呪術の氏族である。また青銅や金属精錬の技術を持っていた。谷川氏によればニギハヤイは、「銅剣や銅矛など金属の利器を製造する工人集団が信奉する「雷神」に他ならなかった」。
谷川氏は銅鐸が物部王国のシンボルだったと推考している。そして神武東征という大事件が銅鐸消滅の背後にあったに違いないと。
なお、11月に鎮魂祭(みたましずめのまつり)が行われているという。宮中で新嘗祭の前日に行われる天皇の鎮魂をする神事で、石上神宮、弥彦神社でも行われている。「一年の終りにあったって、魂を新たに復活させ固定させる儀式」であり、厳粛に執り行われるらしい。この神事が物部らしい数少ない事柄だ。なかなか観る機会はないのだが、興味が募る。
(龍源寺間歩:157mの中を見学する)
残念ながら、社名の物部をきっかけに、古代へ夢想を羽ばたかせることを期待したのだが、
その糸口が私にはつかめなかった。
参拝のあと、石見銀山を訪ねた。それについては、後日書く機会があるだろう。
(参考:「隠された物部王国「日本」」 谷川健一 情報センター出版局
「物部神社」 白石昭臣 『日本の神々―神社と聖地7』