出雲の輝く青銅器の謎

銅剣のまばゆき神の光をば斎き幽せり出雲神原

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(銅剣のまばゆいばかりの光)

出雲の謎の一つが大量に出土した青銅器だろう。
青銅器というと、ヒミコの銅鏡が銀白色に輝いていたイメージがわくのだが、出雲に行って見て、おどろいた。燦然と黄金色に光り輝いていたからである。
写真は、島根県立博物館に展示されている、荒神谷遺跡から出土した銅剣358本で、下段が実物。上段がそのレプリカだが、目をうばう黄金の輝きである。
 
「本当にこんな色?」
と半信半疑で調べてみる。「金・銀・銅の日本史」(岩波新書)の著者村上隆氏によると、
青銅器は銅をメインにスズ、亜鉛などの合金であり、スズの量によって色が変ること。三角縁神獣鏡とよばれる青銅鏡では、スズが平均で23%。それに対し荒神谷の銅鐸では、スズは平均で12.6%。銅鐸の色は少し黄色味を帯びていたのではないかとおもわれ、かなり金色に近い色もあったろうと推測している。
 
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荒神谷出土の銅鐸のレプリカ)
銅剣はスズが5~10%程度とのことであり、銅鐸よりさらに金色に近く、こうしたレプリカの色になったのかもしれない。
先年福岡で「金印」実物をみたときは、そのしっとりした妖しい輝きに魅入られた記憶がある。金属の輝きには、現代人でもある種異様な力を感じるので、ましてや古代の木と土と石に囲まれ生活している人間にとって、これは異常な感覚であったに違いない。
ヤマトタケルが、陸奥蝦夷討伐に向かったときに、大きな鏡を船に掲げていたと書いてある。(日本書紀景行天皇)これもスズが少ない黄金色だったと思いたい。蝦夷はきっと光り輝くものには抗えなかったのだろう。
 
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荒神谷の出土風景:今はレプリカがおかれている)

さて、荒神谷遺跡からは1984年に銅剣358本が、次いですぐ近くから銅鐸6個、銅矛16本がまとまって発見され、歴史上の大発見となった。それまで日本全体での銅剣出土数が300本でそれを超えた量である。
 さらに荒神谷遺跡から直線で3.5kmほどの加茂岩倉遺跡から、銅鐸39個が一挙に発見された。この数も一ヶ所での出土数では日本で一番である。
この発見により弥生時代に出雲には青銅器をもつ大きな勢力があったと想定され、また畿内は銅鐸文化、九州は銅剣文化という古代史学の常識をくつがえすこととなった。
 
それにしても誰が、いつ、なぜ、土中に埋納したのか?という疑問には諸説飛び交っているが、いずれも実用の武器や鈴ではなく、祭祀の道具であったことは確実だ。
荒神谷博物館のガイドブックに依れば、銅剣は、弥生時代の中期の中頃(2000年前)には製作されていたと考えられ、製作後期間をおかずに埋納された可能性もあると、されている。銅鐸の中にはそれよりさらに古い形式のものもあるようだ。
また青銅器がなぜ埋められたかについては次のような説を紹介している。
1 祭祀説  あまごい、収穫などの豊穣の祈りを大地に捧げる祭祀
2 保管説  マツリの儀式のときに取り出して使用するため、普段は土中に保管した
3 隠匿説  大切な宝である青銅器を、部外者から奪われないように隠した
4 廃棄説  時代の変化によ青銅器が不要になったため廃棄された
5 境界埋納説 共同体間の抗争の緊張から生まれた「境界意識」の反映
 
荒神谷付近の地名が「神庭」ということ、さらに出雲国風土記の神原の郷には、古老の言い伝えによるとオオナムチ命が神宝を積んで置かれた場所であるとしていることから、そもそもこの地は神聖な祭事の場所であるとおもわれる。荒神様を置いたのも、その意識の流れではないか。それを共同体の人々がみな知っていた。もし隠匿や廃棄であれば、こうした共通理解はむしろ支障となるのではないか。
 
ということから、私は小さな里を越えたレベルの何かしらの大規模な祭祀の行われた名残ではないとおもう。それは斐の川の氾濫を鎮めるマツリではなかったか。流域の部族はここにつどって重要な神宝を大地の神に捧げた。神話の八岐大蛇は斐の川のことではないかとも言われる。従ってこの治水のマツリは遠くスサノオの八岐大蛇征伐の原型となってくる。思いつきの私説である。
青銅器の光は、こうした夢想をかきたててくれる。
 
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荒神谷博物館:
ちょうど休館だったが居合わせた施設の方からいろいろ伺えた)