所在地 高知市一宮しなね2丁目16-1
ご祭神 一言主神(ひとことぬしのかみ)
参拝日 2016年12月
それはともかく、社殿の佇まいが実に神さびて質実であり、歴史の深みが威圧してくる。それも道理で、参道入り口にある神光門は寛永8年(1631)、鼓楼は慶安2年(1649)に二代藩主山内忠義建立したもの。本殿や拝殿は元亀元年(1570)に長宗我部元親が再建したもので、いずれも国の重要文化財に指定されているものなのだ。実に堂々としている。
拝殿には下足を脱いであがることができたので、お邪魔すると、五百年になろうとする柱は虫が食って穴が目立つものの太く厳かであり、木の存在感が伝わってきて、思わず身が引きしまる。両翼を広げたような形も堂々としているし、並んだ奉納の酒樽にも風情がある。この拝殿に上がることができただけでも、はるばる土佐まで来た意味はあるだろう。数多く廻った一の宮の中でも、指折りの佇まいといえる。早朝ということもあろうか、参拝者の姿もまばらで実に静かな参詣ができた。
(拝殿:古びた素木の柱が豪快である)
神社は高知市の中心地から5,6km北東、四国山地が当地の平野に開け始めるところにある。また国分寺は市街地とは逆に神社の6kmほどの東にある。もしかしたらこの付近に「土左日記」の紀貫之が住んだのかもしれない。
高知の現在の市街地はその昔、鏡川や国府川の州であり、開発されたのは戦国時代以降となる。紀貫之が国司としておもむいたころはまだ、一面の河川敷だっただろう。南国市の一の宮地先が、古代の中心地であったらしい。
(ちなみに「土左日記」は935年にかかれたものである。今回読み直してみたが、土佐についての記述は一行もない。京に帰るに約2ヶ月も要した船旅の、くだくだしく視野の狭い内容だけであり、歌もつまらない。いかに国司などが現地に関心がなかったか瞭然である。こうしたものを学校の古文の教材にする意味がわからない。(私の感想))
古事記の国生みには、四国は身一つにして四面であり、伊豫を愛比売(えひめ)、讃岐を飯依比古(いいよりひこ)、阿波を大宣都比売(おおげつひめ)、土佐を建依別(たけよりわけ)という、と書かれている。建依別とは、勇猛な男性の意味だと次田真幸氏は解説している。(「古事記(上)全注釈」講談社学術文庫)すでに当時から畿内、瀬戸内とは違った風土の地として、いわば熊襲と似たような野蛮なイメージが持たれていたのかもしれない。現に平安末期辺りから、ここは流罪の地として武将や皇子が流されている。
これは私に、隼人の吠声を想起させる。南九州から土佐に人と文化が流れてきていたとしてもなんら不思議はない。(参考 http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/archive/2016/12/4)
土佐神社は、こうした僻陬の地の神として崇められてきたが、由緒書きに依れば、日本書紀に675年、686年に土左大神の記述が見え、祭神は土佐大神であり都佐の国造が奉斎したものだとしている。だが、神社の唱えている祭神は「一言主神(ひとことぬしのかみ)」と「味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)」である。
しかし奇妙だがよく知られた話がある。
古事記には、雄略天皇(21代)が一言主神に山中でであい、畏れ敬い拝んだという記事がある。この同じ事件が、日本書紀では天皇が神に物を献ずる話はなく、神が天皇を尊んだ呼称となっているなど上下関係が逆となっている。
また、「記」では雄略天皇が葛城山で大きなイノシシにであい、榛の木に登って逃れたと言う話があるが、「紀」の記述では逃れたのは天皇の舎人であり、雄略はこのイノシシを倒す、という話に変化している。イノシシは山の神の化身、即ち一言主神であるのはいうをまたない。
さらに、追い討ちをかけるように、「釈日本紀」では、雄略天皇が葛城山で猟をしているときに一言主神が現れ不遜な言をなし、怒った天皇により土佐に流された。そして一言主神は味鉏高彦根神と同一神だと書かれている。また「続日本紀」では猟をしている天皇を怒らせた老夫が土佐にながされ、それが「高鴨神」だとしている。(以上は、孫引き)
天皇家が、雄略の頃に徐々に勢力を高め、葛城氏が虐げられていく様子がうかがえて興味深い。おそらく葛城氏の一族のものが、土佐に下向することがあり、氏族の神である一言主神や味鉏高彦根神をそちらに勧請したのだろうと思われる。
土佐神社の祭神は、こうした謂れを受けたものである。千四五百年まえの政争が、奈良の地方神を土佐の守り神とした。神聖な神の世界も生々しい俗っ気がふんぷんとしてる。紀貫之は、こうしたことは知っていたのだろうか。
そんな奈良の内輪の政争とは無縁に、神々は異国の地にしっかり根付いたようだ。