戦争遺産「掩体」を土佐に訪ねる

              戦争は燃えさしのまま南風(まぜ)強し
「白菊」の枯れて戻らず土佐の空
(「白菊」は海軍の練習用飛行機の名)
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 掩体(えんたい)とは、戦時中の戦闘機の格納庫のこと。
20年ほど前に目にした奇妙な光景が忘れられなくて、高知県南国市の海岸近くに向かった。細い道路が、高知空港の滑走路の下をくぐり田んぼの中に出てくると、それは前方に見えてきた。黒々として実に奇怪な異物感。
これは戦時中の戦闘機の格納庫である。掩体(えんたい)という。それが見渡す田圃の風景の中に、あちらにこちらにと100m内外の距離を置いて点在し、現在7基が残っているようだ。
 
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説明は、看板に任せることにする。
この掩体は、旧高知海軍航空隊所属の飛行機を攻撃から守るための格納庫である。
昭和16年から20年の終戦直前まで飛行場からの誘導線に沿って、鉄筋コンクリートのものが9基、木や竹、土のものがいくつか造られた。現在、鉄筋コンクリートのものが7基残っている。一番大きいもので、約、高さ10m、幅45m、奥行き22m 小さいもので、約、高さ5m、幅15m、奥行き18mで厚さ50cm程もあり、頑丈なものである。
 高知海軍航空隊(現高知空港の前身)は、旧三島村の大部分を占有して1943年(昭和18年)に造成された。ここは予科練(飛行予科練習生)卒業生のうち、偵察搭乗員の実技教育をする飛練(飛行術偵察専修練習生)の本科の練習航空隊であった。その練習機が通称「白菊」である。
 昭和20年5月から「白菊」に爆弾2個をのせて、「神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊」として沖縄へ悲劇の出撃をするのである。掩体のある光景は、歴史的事実を今に伝えるひとつの記念碑としてどっしり構え、周囲の風景と奇妙なコントラストを見せ、平和の意味をしっかりと教えている。(南国市教育委員会
 
一部は市の調査がなされて公開されている。しかし他のものは20年と同じでゴミやいろんな農業資材が無造作に置かれていた。20年には若かったので、この上までのぼったことを思い出した。
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機能だけの丸い形、無骨な頑丈さ、飛行機の出入りする形に開かれた入り口、みていると手作り感があり愛おしささえ感じさせる形態である。少年兵たちが戦闘機を押したり、手入れをしたりする光景が想像される。特攻では56機が未帰還、米艦船を沈めた戦果もあげたのだという。
第2次世界大戦は、確かに無差別殺戮の戦争ではあったが、この格納庫を見ていると、現在のシリアの空爆に比べて、まだまだヒューマンスケールな時代だったなと思わざるを得ない。
鹿児島の知覧もそうだったが、こののどかな太平洋岸は、かつて敵機を迎え撃つ最前線であったことを改めて感じさせられた。