空爆の慰霊碑・・・加害者と被害者と

砲身は熱し地下壕に寒の夜

( 戦災犠牲者慰霊碑の観音像 とB29墜落搭乗員慰霊碑(左側))

ロシアの無差別ミサイル爆撃が止まらない。国連の発表では、ウクライナの市民の犠牲者が7,000人を超えたといい、さらにまだ確認できないものも多く実情を把握できていないらしい。またインフラ攻撃は電気ガス水道を破壊し、この寒さの中、市民は暖房にも事欠き暗い夜を爆撃におびえて暮らしている。

痛々しいが、経験のない身としてはなかなか我がこととして想像するのは難しい。

 

だが考えてみれば、実はこれは、80年ほど前に日本がアメリカの空爆を受けた恐怖そのものだということに気がつく。静岡に対する爆撃は、概ね以下のとおりだ。

静岡市が初めてB29の空襲を受けたのは1944年12月7日」。「年が明けてから空襲は激しさを増し」「その後、空襲は都市無差別爆撃に変わる。」「6月19日深夜から20日未明にかけては、120余機のB29が波状攻撃をくり返し、街はたちまち火の海となった。この夜の死者は1,652人に達した。」この時静岡市は全市の66%が焼失した。

B29が100機以上で都市に対し夜間、低空から無差別爆撃をおこなった、いわゆる「大空襲」と呼ばれる攻撃は、静岡県内では浜松が6月18日未明 死者1,720人、全市の70%焼失、清水が7月7日未明 死者・不明者155人、全市の52%焼失、沼津が7月17日未明 死者274人、全市の90%焼失、という状況だった。この4日だけで3,800人が殺されている。

東京大空襲は3月9日、死者は10万人とも言われている。そしてこれらは戦争犯罪にも問われていない。

(現在の静岡市街地 遠方は駿河湾伊豆半島

先日、初詣に静岡浅間神社に詣で、裏山の観音像まで歩いた。

ここは徳川家康にもゆかりの深い神社である。すでに初詣の賑わいも去り境内はいつもの静けさを取り戻していた。この神社の裏山は賤機山と呼ばれ、市民のハイキングコースとなっている。その140mほどのピークに戦争の慰霊碑がある。なまった体に鞭打って、息を切らせて歩いてきた。

山頂にある観音像は空襲の犠牲者を悼んで市民が建立した「戦災犠牲者慰霊碑」。その左脇にあるのは、「B29墜落搭乗員慰霊碑」である。いわば被害者と加害者の両方が並んで慰霊されているとも言えるわけだ。B29慰霊塔の由来はこう書かれている。

「この空襲中に2機のB29が墜落した。」

「1機は二つに折れて安西と田町に落下、1機は山林に落ちて爆破四散した。

安西と田町に落ちたB29の搭乗員の遺体に、憎さのあまり石をぶつけたり棒で突いたりする市民もいたが、田町の伊藤福松は「死んでしまえば敵も味方もない」として、搭乗員の霊を弔い、後に賤機山の山頂に戦災犠牲者慰霊の観音像と共に、B29搭乗員の慰霊碑を建てた。」という事情のようだ。

 

私はウクライナの映像を思い出しながら、手を合わせたのだが、気がつくと「B29墜落搭乗員慰霊碑」の前に何やら英語の文字盤がある。

「IN GRATEFUL APPRECIATION TO・・・」という書き出しで、どうやらそれは亡くなった搭乗員のアメリカの家族が2008年に設置したもののようだった。慰霊碑の設置者と静岡市民に対して感謝の意が表されていた。名簿は亡くなった搭乗員なのだろう、数えると23人だった。

敵を悼むのも人間性の一面だし、残虐性もまた一面。

残虐性のコントロールはできないものか。

 

(参考・引用:「史跡が語る静岡の十五年戦争」 静岡県近代史研究会編 青木書店 から)