白鳥の歌

白鳥や頸折り眠る星の下

静岡市の郊外にある麻機沼に、今年また白鳥が来ている。この地では珍しいことなので、沼には観察者がいつも数人は集まって、カメラを構えている。

私も沼の周辺を散歩がてらに白鳥を観察?した。オオハクチョウで、8羽くらいいそうだ。

 

見ていると、大きな一羽が単独でうろうろしていて、時おり鳴いた。私は白鳥の鳴き声を初めて聞くのでちょっと感動した。声量があるクァーとグァーの中間くらいの音で、二声ほどでまた黙ってしまう。しばらく待っているとまた二声ほど鳴いた。その声には物悲しい感じがあった。

カメラを持った常連さんが、沼とは堤防で分離している川を指さして、ひな鳥がいることを教えてくれた。見るとこちらは首がやや茶色がかりあまり元気がなさそうに静かにしている。沼で鳴いているのが母鳥で、こちらがその子で、母鳥は子を探しているのではないか?と説明してくれる。

「可哀そうに、心配している。子どもも鳴いて返事をしてあげればいいのにね」

と感情移入。たしかにそう思うほど母鳥の声は悲しい感情を呼び起こすのだ。

やがて西に陽がかげり、風も冷えてきた。皆さん気がかりなまま駐車場の方へ帰っていく。私も帰る。

白鳥の鳴き声なんて珍しくない地方の方々から言えば、どうということはないことなのだろう。

 

白鳥と言えば、ヤマトタケルが亡くなったときに白鳥になって飛び去ったことは、古事記の名場面である。わたしもその現場という「能褒野」(のぼの)という古墳を探して行ってみたことがある。

 

シベリウスに「トゥオネラの白鳥」という8分ほどの曲がある。こんな折なので珍しく古いCDを引っ張り出して聴いてみた。ベルリンフィルカラヤン、1965年の代物である。

トゥオネラというのはフィンランドの伝説では、黄泉の国のことで、そこにある暗い川、いわば三途の川だが、そこに白鳥がいるのだという。確かに曲は不気味なしずまりの中に始まり、イングリッシュホルンの白鳥が静かに泳いでこちらに向かって来るようだ。私の聞いた白鳥の声とは、まあ近似値で似通っているという感じである。

それにしても、ヤマトタケルの白鳥といい、トゥオネラの白鳥といい、死の国のシンボルとしてかくも共通している不思議さ。

 

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以下参考

(能褒野(のぼの)神社   三重県亀山市

 

「のぼの」は、記紀ヤマトタケルの死去した地と伝えている。いかにも茫洋として古代への思いを誘う地名に引かれ、一の宮巡りの足を伸ばした。

三重県亀山市国道1号から3キロほど西に入った処で、京に向かうにはこれから鈴鹿山地の難所を越える手前、という位置になる。あたりは農地が広がる穏やかな風景である。

ただしこの社は、創建が明治28年で神社自体の歴史は全くない。従って一の宮とは関係なく、番外編となる所以である。

訪れた神社は質素な村社程度のもので、社務所と看板のある入り口を覗くと生活臭が漂い、出てきた作務衣を着たおじさんは失礼ながら宮守か農夫かという雰囲気で、とても神主とは思えない。

「上がっていいよ、写真とってもいいよ。」と素っ気無く、祭壇のところを指して「座っていいよ」といった後、

<ああ、正座でなくていいよ。ここの神様は足が悪いから。

という。

私は、ヤマトタケルが最期に病んで足が歩けなくなり「私の足は、三重のまがりのようになり、ひどく疲れてしまった」という古事記の記述を思い出して、合点していた。

足の病については、谷川健一氏が「青銅の神の足跡」の中で、ヤマトタケルの敗走ルートになった土地は、ことごとく金属精錬に関係のある土地であり、水銀中毒やタタラによる失明などとのつながりがあることを指摘している。
そしてヤマトタケルの最晩年の悲劇は、古代の金属精錬集団の悲劇の反映であったとしている。これについては「南宮神社」のときにすでに触れたところである。

(のぼの の陵)

さて、古事記日本書紀では記述に違いがあるものの、ヤマトタケル伊吹山の神の怒りに触れ病となり、大和への帰路の途中、この地で亡くなり葬られたことは、同じである。

古事記では、死の間際に

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし

(やまとは くにのはほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるわし)

愛しけやし 我家の方よ 雲居立ち来も

(はしけやし わぎへのかたよ くもいたちくも)

の有名な歌を歌ったとされている。

私もここで「我家の方の雲居」をはるばると見渡してみた。
梅雨の雲が垂れ込め、雨こそ一時やんだものの鈴鹿の山々は見晴かすことはできなかった。

この歌は、日本書紀では、彼の父の景行天皇が九州に遠征した折の歌として扱われている。

詮索はともかく、ヤマトタケルは「のぼの」に葬られたが、白鳥になって大和を指して飛び去ってしまった。柩を開いてみると衣だけが空しく残り屍はなかった。
古事記では、妻子が小竹に足を切りながら哭(な)きながら白鳥を追いかけたことが記されている。
古事記で最もロマンチックな部分である。

さて「のぼの」の墓はどこなのか。この地には古墳が随所にあって江戸時代から諸説議論があったようだ。明治政府の内務省は明治6年に一旦、「白鳥塚」を「のぼの墓」と比定したが、明治12年それを覆して「丁字塚」を比定し、以後御陵として整備、管理しているということである。この陵の傍に、のぼの神社は建てられていて、一帯は「のぼの自然の森公園」に整備されている。

私は、のぼの神社から10キロ足らずの場所にある「白鳥塚」も訪ねた。
こちらは本居宣長などが「のぼの墓」だと主張していた墳墓で、江戸時代はむしろこちらのほうに分があったようである。

(白鳥陵)

墳墓は円墳で、御陵ではないので囲いもなく、大らかに草木が繁っていて、眼下には加佐登池が見渡せた。

歴史の事実は時間の闇に紛れてしまったが、古代人の抱いた鮮烈な白鳥のイメージだけは、永遠の時空を飛翔し続け、われわれの上空にまで飛んできている、そんな気がした。