「震洋」特攻艇の格納庫跡を訪ねる(清水の三保)

草枯れて戦跡埋ずむ三保の浜

 

(一番目立ち大きい格納庫)

 

清水の三保は羽衣の松、白砂清松と富士山の景観で親しまれ世界遺産となっている。だが、ここに80年前の戦争遺跡が残されていることは、私も知らなかった。

先日、ふと目にした児童用の静岡市の歴史の冊子に、小さく、本当に小さく「震洋」の基地があったと書かれていて、なんだろうと思いネットを調べると、三保には海軍航空隊がありここに第136震洋航空隊がおかれ、「震洋」の格納庫が幾つか現存しているという。市民の多くは知らないのではないか。さっそく友人と現物を確認にいった。

2024年2月時点での状況報告としておきたい。

 

震洋」とはなにか?

終戦近くに開発された非道な人間兵器、小型の特攻ボートである。小型のべニア張りのボートにトラックのエンジンをつけて船頭に爆薬を積んで、猛スピードで敵の大型艦に体当たりする。費用も安く上がり終戦までに約6000台が量産されて、全国の基地に配備されたのだという。

(NHKの WEB戦跡からお借りしました)

 

三保基地にはしかし、3,4台程度しか配備はされなかったようだし、またここから死の出撃はなかったらしい。それを知って幾分気が楽になる。

 

三保を行くと、先ず分かったのが上の写真の格納庫。これが一番目立ち、一番大きい。住宅内にあり現在倉庫として使われているようだ。80年経ってもコンクリートはまだしっかりしている。(三保3117-3)

 

次は三保マリーナの敷地にあり、倉庫になっている。

 

次は道路わきに1mほどの高さでその上部だけを見せていて、これは何だろう?とおもわせる風情である。隣の廃墟住宅ともども路面よりもずいぶん低いところにあり、「砂の女」を思わせる。(三保2903-9)

 

次はマリーナ入口から堤防に沿って北に5,60mの大きな松の影に1基。これもかつては民家の倉庫だった様子。

さらに付近に2基ほどあるという情報もあるが、ひどい竹やぶで昼でも暗い内部はうかがい知れず、2人で顔を見合わせて断念した。

次は、東海大学松前球場のライト側の林の中に土手に頭だけを出して隠れていた。これは奥行きがあまりなく、渚とも離れており隊員の避難所かとも思える。汚れていて中にはタヌキの死骸が腐っていた。

 

現場では以上だが、

ネットを探していると、浅見幸也さん(静岡平和資料館をつくる会運営委員長)が次のように語っていたので、分かりやすいので引用させていただだく。

 

日本の戦況が著しく悪化しはじめた1944年(昭和19)には震洋特別攻撃隊が編成され、海軍飛行予科練習生(予科練)の卒業生たちが全国100箇所以上につくられた基地へ配置されました。静岡県では伊豆半島(東部地方)を中心に5隊が配置され、なかでも三保基地には第136震洋隊、総員48名が集まったそうです。

とはいえ、隊員の多くはパイロットになるべく志願し訓練を行ってきた人たちです。ベニヤ板と小型エンジンでつくられた簡素なボートをみて、実際は落胆する隊員も少なくなかったといいます。

(参考 https://gakuseinews.eshizuoka.jp/e1566994.html )

 

さて、

三保におかれた海軍航空隊をしのぶ遺跡はあまり残されていないようだ。三保灯台の近くに「甲飛予科練之像」が建てられており、次のように書かれている。

だが特攻隊、「震洋」のことには触れていない。予科練震洋特攻隊とはどんな関係にあったのだろうか。

 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた。

学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。

 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。

 

予科練というと土浦の七つボタンの軍歌を想起するが、恥ずかしい話、三保にもあったことは知らなかった。予科練の建物の一部が残っているという情報もあるが、はっきりしない。

その広大な跡地は高校や東海大学の施設に使われているのだが、付近の農業ハウスは壊れたままだし、かつてあった遊園地は竹やぶと化している。近くのホテルももう廃業している。この三保地区は造船業の不況などで人口が激減してしまったという。

 

湾の内浜をうろうろしていると、湾内のクルーズ船から観光客が降りてきた。すぐ脇の藪の中に「震洋」格納庫があることをもちろん知りもしない。わたしもこの時初めて知ったのだった。

以前、高知県で飛行機の掩体を探してみたことを、思いだしている。こちらは三保よりも保存が進んでいた。

参考 

戦争遺産「掩体」を土佐に訪ねる - 続 曇りのち快晴