水無神社 (飛騨国:岐阜県)

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飛騨は本当に山の中である。先日4月下旬の飛騨を走ると里の桜こそ散ってしまっていたが、山々にはまだ辛夷と山桜が競うように咲いていて、早春の冷気さえ漂っている。
 
水無神社は高山からはおよそ10キロ。JR高山線飛騨一之宮駅の直ぐ近くで、宮川の傍に鎮座している。この宮川は高山の市街を流れ下りやがて神通川となって日本海に注いでいる。
境内は、山に囲まれた川の流域沿いにわずかばかり広がる平地にあった。社殿を囲む杉が実に巨大であり、森厳でしかも静謐な雰囲気をかもしている。鳥居の脇の大杉は樹齢800年とも言う。私が訪れたときは他に参拝者はなく、ただしんとして遅い春の陽が暖かかった。本殿や拝殿は回廊の中にあり、そこまでは入れないため神門において拝礼することになる。
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社名の水無は、宮川の水がこの辺りで伏流水となり地名ともなっているのでその意味であるとか、水主の意味であるなどの説があるようだ。宮川の源流にあたるのが水無神社の神体山とされる位山(1527m)であり、巨石群があり霊山として古来名を知られたようである。現在でもこの山の一位の木(櫟)で笏をつくり歴代天皇に献上する慣わしとなっているという不思議な歴史がある。


私は参拝のあと県道97号を下呂方面に走ったのだが、途中にモンデウス飛騨位山というスキー場があったので、この時季誰も居ない食堂でまずいお昼を取り、その先で位山峠を越えた。このルートは古い時代の東山道で飛騨の匠たちが労役に借り出されて越えた峠だという説明板がひっそり立っていた。辛夷が満開で、ほとんど車が通らない道だった。

神社の祭神は、「水無神として御年神に外十四柱を祀る」と由緒書きには記しているが、判然としないらしい。一の宮としてこんなに不明確な神社は余り他に例がない気がする。ただ水や作物の豊穣の神であるのは当然想像されるところだ。
その代わり、ということもないが、いろいろな不思議な言い伝えはある。神社の由緒書きは次のように書いている。

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宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺となっており、水主の神の坐す聖域、神体山として古来より霊山として名高く、当神社の奥宮と称しています。
位山の山中には巨石群があり、大石を以て何かを築いたといわれたり、初期の古墳のようであり、ドルメン(支石墓)のようでもあるなど様々な説がありますが、何かの神秘的な霊場であったと考えられています。
また位山の主の宿儺(すくな)が雲の波を分け天船に乗って位山に来たという古伝説もあり、位山が古代において何か宗教的な神秘性を持ち、位山の神秘性が宿儺という人智を超えたものに凝固したと見る説もあります。
この霊山にはイチイ(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、位山のイチイの木を笏の材料として献上した際に、この木が一位の官位を賜ったことから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという説があります。・・・


ついでに坂口安吾の「安吾の新日本地理」では、

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ヒダの一の宮水無神社という。一の宮だが現社格は近代まで県社ぐらいの低いものだったらしく、祭神が今もハッキリとしない。神武天皇と云い、大国主と云い、その他色々で、水の神サマであるか風の神サマであるか、それもハッキリはしていない。ヒダの伝説によると、
神武天皇へ位をさずくべき神がこの山の主で、身体が一ツで顔が二ツ、手足四ツの両面四手という人が位山の主である。彼は雲の波をわけ、天ツ舟にのってこの山に来て神武天皇に位をさずけた。そこで位山とよび、船のついた山を船山という」
 これはヒダの国守であった姉小路基綱のヒダ八所和歌集裏書きの意訳ですが、これがだいたいヒダの伝説の筋です。…と記している。

ちなみに姉小路基綱という人物は、15世紀後半の飛騨の国司戦国大名。面白い話だ。

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大原騒動一宮大集会記念碑
 
さて、この神社は何をおいても、高山の歴史に大きな暗い傷跡を残している大原騒動の重要な舞台となったことについて触れておく必要がある。山本茂美の「飛騨高山祭---絢爛たる民衆哀歌」を参考にまとめると次のようになる。
「大原騒動とは、飛騨代官大原彦四郎とその子亀五郎郡代二代にわたる騒動で、第一次の明和、第二次の安永、第三次の天明と二十年間も続く凄惨な一揆である。」
とくに水無神社は、第二次騒動の折1773年に、代官の厳しい増税に反対する農民たちが最後の砦として2ヶ月間ほど集結した場所であり、その数は時に一万人を超え、飛騨最大の一揆となった。そして結末は、神域は安全だと教えられていた農民の集団に対し発砲をふくむ無差別な鎮圧の暴力が振るわれた。この日の即死者3名、負傷者200名、縛付けの者125名に及んだ。
そしてこの水無神社の騒動の事後処理はきびしいものだった。
神官2人と首謀者2人が磔、7人が死罪獄門、2人が打ち首、14人が八丈島、三宅島、新島へ流罪、その他追放14人、叩き払い5人、押し込め3人、過料9081人だったという。農民の徹底的な負けであった。また神社も、宮司一揆のために祈祷したとして磔刑、社家は断絶するというおおきな犠牲を払っている。
この神社は高山近在の農民、山方衆など抑圧されたものたちの精神的シンボルでもあったのだろう。これまで数多くの神社に参拝してきたが、こうした近世の凄惨な歴史を持つところは他にはなかった。それだけに境内の静かさに違和感さえ感じられた。


神社の鳥居の手前右側に、大原騒動一宮大集会記念碑があり、第二次の騒乱の歴史を事細かに記載している。また車で走る道路わきには、騒動の指導者宮村冶八の碑があった。こうした碑があちこちにあるのだという。
ところが、山本茂美の上記の本によると、高山祭の豪華な屋台は、まさにこの大原騒動のころ作られ祭が盛り上がってきたのだという。町の商人は騒動の時代に打ちこわしを受けながらも驚くほどの財を蓄えていくのだが、農民の怖さを知った彼らは農民も入れながら豪勢な祭へと仕立てていく。高山祭には農民や山方衆を懐柔する策としての一面があったことを指摘していて興味を引く。もちろん祭とはそれだけで説明できるものではない。
 
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高山の古い町並み 外国人がたくさん!
また境内には島崎藤村の父、正樹の碑がある。彼は官選宮司としてこの社に明治7年から3年余ここに奉職した。平田派の国学者であり「夜明け前」の主人公のモデルであるという。私は、演劇でみたことがあるが本は読んだことがない。