びるぜんさんた丸や(処女聖マリヤ)―3

破天連は呪いか真言(まこと)か黒揚羽

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(聖母子の掛け絵:生月島壱部地区びわの首ツモトの御前様:かくれキリシタンの聖画」(小学館)39ページから借用


 

「天地始之事」では、イヴはゑわ、アダムはあだんで、原罪のりんごは、まさんの木の実という。(・・・私のニックネームと似ている)

そしてゑわを狡猾にだますのは、蛇ではなくあんじょ頭のじゅすへる(天子の頭のルシフェル)である。

ゑわとあだんにはちころうという男児たんほうという女児があった。解説によれば元々はちころうは次郎、たんほうは太郎であったのが訛り、さらに男女になってしまったようだ。原典では、カインとアベルの兄弟でカインがアベルを殺すストーリーであるが、この聖書では、兄妹が近親婚をして人の祖となる展開となる。

その表現が切実である。兄妹は追放のあと別れて暮らしていたが、

「あには妹がこいしくなり、妹は兄がこいしくなり、こゑをかぎりに、おめいてあるく。谷でよぶなら、高りこゑのするどく、高りでよぶなら、谷にこゑのするどく、こゑをかぎりに、おめいてあるく。それをみかねて、御親様の天より、ばんのしゆるけんを高りに立てる。其光りに、両人は走りより見て、あんまりうれしさに、女は針をなげかける。男は持ちたる櫛をなげかける。女のなげたる針は、男のいただきにたち、血がながれる。その血がとまらんによって、天に向って、御ねがひをする。しじいしよう(四時一生)をと(夫)にわ、したがいますと、ねがゑば、血はとまる。其れより、ふりたるけんで、兄妹のゑんはきれ、夫婦のちぎりをむすぶ」

 

浄瑠璃の語りのようである。


イブはアダムの肋骨から生まれたので、二人も近親婚かもしれないが、聖書にこうした兄妹婚の話があるのかどうか良くは知らない。「天地始之事」独自のものだろうか。これはつい先日話題にしたばかりの、プラトン「饗宴」に出てくる球形で二つの頭、4本ずつの手足を持った人間の原型を、ゼウスが稲妻で二つに分けたところ、その半身どうしが焦がれて抱き合ったまま多くが飢えて死んでいった、という話を思い出させる。

 http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/65487893.html


 それにしても、この場面を語る思いれがあまりに深いのには驚かされる。

何故なのだろう、といえば、そうした近親婚が少なからずあったからなのだと思わざるを得ない。さらにうがっていえば、こうした聖典で「ふりたるけんで、兄妹のゑんはきれ、夫婦のちぎりをむすぶ」と語られることによって、近親婚を大目に見る拠り所としていた、ということはないのだろうか。この文を見る限り、禁止するより容認する心情が勝っているように私には思えるからだ。