太平洋戦争の末期、私の両親は尼崎から郷里の奥信濃に疎開し無一物の生活を始めた。この中で長女は腸チフスで亡くなっている。
集落の背後に100mほどの小山があって、上ると大きなため池があり、父母はその池縁の荒地を村から借りて開墾し、サツマイモやトウモロコシなどを植えて食糧の足しにした。
「ここは案外地味がよく作も良かった」と母は晩年に自慢げに語っていた。
母が子供を連れて山の畑仕事にいくと、子供らは犬の子のように辺りをとびまわり、草競馬のコース道の下のわずかな段差を、「尻橇」(けつぞうり:直にお尻ですべること)をして泥だらけになった。そして池の端の松の木の下で質素な弁当を食べ、芝草に寝て昼寝をした。湖面からの風は夏でも涼しかった。桑の実も熟れすずらんも咲いた。
私のホオズキの記憶といえば、この山の畑に自生した食用ホオズキになる。木の切り株がまだあちこちに残り、それを覆うようにサツマイモがツルを伸ばす中から、1、2本だけホオズキが生える。少し這うように枝を伸ばして、小さなうす緑の袋とその中にやはり小さな玉を実らせ、これが熟んでくると浅い黄色になる。口に入れて舌で遊び、わずかな甘さが幼子の楽しみだった。
その頃これを「食われホオズキ」とよんだが正式名はわからない。食用ホオズキが自生していたかどうかも、わからない。記憶の中のホオズキである。
いわゆる普通のホオズキは、毎年たくましく家の周りに生え、その赤い実を揉んで爪楊枝でていねいに種を出し風船のようにして、口の中で鳴らして遊んだこともある。面倒くさがりの私は、その作業がうまく出来なかったし、ただギュウー、ギュウーとそれを鳴らすこともあまりおもしろいと思わなかった。
今年も庭に、2,3個の実をつけている。
ふるさとや妣(はは)まだ若き青鬼灯