人形浄瑠璃と「江戸時代人物画帳」(川原慶賀)


木偶(でく)廻し木偶をたちまち女にす

淡路島で人形浄瑠璃を見る機会があった。
ここの人形浄瑠璃は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。かつては多くの座があり、大阪に伝播し文楽の基となるなど各地に伝わったが、次第にさびれ現在島内で常時公演されているのは「淡路人形座」だけになってしまったとのこと。
 
イメージ 1(えびす様)
人形座は南淡路-の福良港近くにあり、当日の出し物は「伊達娘恋緋鹿子」および「戎(えびす)舞い」だった。
「伊達娘恋緋鹿子」は「火の見やぐらの段」。八百屋お七をベースにした世話物で、人形なのに女のしぐさがいかにも艶かしい。
「戎舞い」は福の神えびす様がやってきて庄屋さんが何杯も酒をついでもてなすと、えびす様は酔って舞い、最後にタイを釣り上げ福を運んでくるというもので、たわいもないのだがどうしてどうして、見ているうちに楽しく明るい気分になる大笑いしてしまう。
淡路では、
第二次大戦の終り頃までは淡路人形芝居の一座が巡業公演をし、村々の祭礼や縁日の出し物のなかには必ずといってよいほどエビス舞があった。さらに一座は家々をも回って三番叟、エビス舞を演じ、「エベッサンがくる」といってしたしまれたものである」。(「淡路の民俗信仰」濱岡きみ子 『日本の神々』3)
 
さて、人形浄瑠璃は3人で人形一体を操る。
リーダー格の「主遣い」が頭と右手を、左遣いが左手一本を、足遣いが足を操る。ということだが、「江戸時代人物画帳」という珍しい本を開いていたら、次の絵があった。
 
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この絵で人形を遣っているのは、たった一人である。人形のサイズも文楽のものより、だいぶ小さい。・・・」
「この人形操法は、実は江戸時代でも古い形式なのである。近松門左衛門の活躍した元禄期(1689―1704)は、この遣い方で人形浄瑠璃芝居が上演されていた。三人遣いがさかんになるのは、近松が没して後、1734年(享保19)頃からだといわれている。」(参考:「江戸時代人物画帳」の解説(武井協三)より)
とのこと。一人遣いでは表現力は低かったろうから、近松浄瑠璃も当時はだいぶイメージが違っていたのかもしれない。
 
この「江戸時代人物画帳」は、シーボルトのお抱え絵師、川原慶賀の描いた庶民の姿」であり、109の画像が掲載されている。花魁、伊達男、隠居、薪を売る大原女、農夫、刺青をした川越人足、旅人、鯨とり、高野聖、六部、泥棒などどれも興味をそそる。
シーボルトは川原慶賀らにたくさんの植物画を描かせて、それをベースにオランダに帰って、いわゆる「フローラ・ヤポニカ」という植物図譜を出版している。図譜の美しい絵の多くが慶賀の写生画を下敷きにしたといわれている。彼の出版物はヨーロッパのジャポニズムの先駆けとなった。(参考: http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/64612787.html )

そして慶賀について、
彼は長崎出身の非常に優れた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法を取り入れ始めていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている」と非常に高く評価している。(参考:「シーボルト」 石山禎一 里文選書)

「江戸時代人物画帳」は、まさにその人物画であろう。確かに陰影をつけた一見リアルな画面は、浮世絵とは大きく違って、不思議な魅力がある。植物画とあわせて もっと日本美術史的に注目しても良いのではないだろうか。

慶賀がシーボルトの指示でこの絵を描いたのは、1826年のころらしい。西洋ではドラクロワが「民衆を導く自由の女神」を1831年に発表、そのころアングルは「泉」を描きつつあった。日本では北斎、其一、広重が活躍していた時代になる。

これらの原画はもちろん日本にない。ミュンヘンの国立民俗博物館蔵である。

こんな人形遣いもいたようだ。不思議な感じがする。
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