冷や奴と一茶のことなど

冷奴正六面体に鎮座せり
 
イメージ 1

冷や酒と冷や奴は、私の定番。
俳句では両者とも夏の季語なのだが、私の場合はほとんどビールを飲まずに年中これだから、無季。
今日もチビチビやりながら、トランプだ金だ、新幹線殺人だ、真昼の駐車場略奪殺人だ、ああ大変な世の中になった、時間外労働だ、スペインの内閣はどうなった?などと独り言ちながら、すぐに定量で眠くなってしまう。追加して、大阪の地震だ。
 
豆腐は昔から酒のお供だったようで、一茶にこんな句がある。
とふふ屋と酒屋の間(あひ)を冬籠 (一茶:八番日記)
たしか江戸では豆腐は庶民のために価格統制されていた、ような記憶があるが不確かである。
 
また一茶は若いころ、こんな句もよんでいる。
宵越のとうふ明りや蚊のさわぐ (一茶:享和句帖) 
昨夜からとっておいた豆腐が、明け方の薄暗がりの中に、ほの白く浮かび上がり、その豆腐の明るさを慕って蚊が鳴き群れているという情景で、「とうふ明り」は一茶らしい奇抜な造語である。と小学館『日本の古典を読む20』では解説している。
 
この句から、久保田万太郎の次の句をふと思い出す。
湯豆腐やいのちの果てのうすあかり
 
「いのちの果てのうすあかり」とは、深長な言葉だ。
私ももう亡父の年を超えたし、加えてこの5月は頸椎ヘルニアで激烈な神経痛に襲われ、いまだ右腕に障害が残り老化を実感させられた。「いのちの果て」という言葉がリアルに心にひびく。
 
この句に一茶の影を感じるとる必要もないのだろう。句の醸すものが随分違うから。一茶は木綿だろうし、万太郎は笹の雪の絹ごしかもしれない。
それよりも、豆腐の白さに明るさを感じるという、二人に共通したこの生理感覚は、現代の明るい夜を生きている私たちにはうまく理解ができないものだ。

でも6月の今頃だと、ためしに朝の4時くらいに窓を開けて、少しずつ闇が薄れていく庭や街を見ていると、その中でやはり白っぽいものが、真っ先に薄明かりを得てぼんやりと浮かんでくるのが分かる。
一茶の句はそうした時刻の句であろうし、万太郎の句も十分明るいとは言えない中での夜の湯豆腐であっただろう、と私には思える。
ともあれ豆腐の繊細さと庶民性に乾杯!