さきたま古墳群も秋風

骨も溶けし古墳仰ぐや秋の雲

 

           (丸墓山古墳 これだけが円墳)

埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」をたずねた。ここにある「稲荷山古墳」から出土した「金錯銘鉄剣」は金で115文字が刻まれていて、国宝となった重要なもの。それだけに一度は訪れてみたいと予て思っていた古墳だ。

 

私は北関東あたりの地理は全く不案内で、べんべんとした平地を走っていたら、おや?という丘が見えた。そしたらそれが古墳群だった。古墳の高さが目立つくらいあたりは平坦なのだった。この積み上げられた高さこそが、豪族の権勢そのものなのだろうと思える。

古墳は草原の中に2、300mくらいに離れて散在していて、歩道をのんびり歩いて見学できた。

一番高い丸墓山古墳は高さ17m、うえに上るとうわさ通り上州の風がまともに吹きつけてくる。「強い風ですね!」と登ってきた人に声をかけると、「まだまだこんなの序の口ですよ」と笑う。遠くに榛名山赤城山が見える。周辺が広々見渡せて、周りの古墳群もみえている。私はたくさんのトンボに紛れて次の稲荷山に登り、そして将軍塚古墳へ。将軍塚には内部の石室が公開されていて、古墳に眠る人の状況が分かる展示になっている。

残念なことに博物館が改修のため、なんと「金錯銘鉄剣」をみることができないという。仕方なしに将軍塚古墳の中にあるレプリカの鉄剣で我慢するしかない。

(「金錯銘鉄剣」 金の115文字が刻まれている  ただしレプリカ)

自分のお勉強のために、この鉄剣の文字をおさらいする。(wikipedia参照)

漢字で書かれているが、解読すると、次のようになるという。

「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(以上は表面)」

「其の児、名はカサヒヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケルの大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(以上は裏面)」

(古墳の出土品から復原した武人像)

いろいろ説はあるようだが、辛亥の年とは471年が定説となっている。8代にわたる先祖の名を挙げて家系を誇り、ワカタケル大王の御代に自分が天下を収め、この刀をつくって「吾が奉事の根原を記す也。」と雄々しく彫り込んでいる。意味は私にはよく分からないが、関東武者?の心意気が伝わってくるようだ。

このワカタケル大王は、雄略天皇だとほぼ定説になっているという。雄略帝はずいぶん短気で側近を直情的に殺したり、女を一晩で孕ませ、問われると7回やった、と答えるなど、肉体派の暴君だったようだ。

その帝に仕え、広々見渡すほどの北関東一帯を収めた豪族。一体毎日何をしていたのだろう、などと古墳の上でしばし古代へ思いをはせる。

ちなみにここの地名「さきたま」が埼玉県の名の語源らしい。