萩原朔太郎の「広瀬川」

今さらの朔太郎とは思えども広瀬川の流れ滔々

高崎へ向けて車を走らせていて、前橋がすぐ近いなと気がついた。前橋といえば、萩原朔太郎の生地ではないか!

思い立って前橋の中心街にあるという文学館にむかった。予備知識がないので、スマホで調べながら行くと、萩原朔太郎記念館というのは、彼の生家の一部を移築復元したもの保存しているという。目的地について覗いてみると、いかにも凝ったデスクなどが窓ガラス越しに目に入った。大金持ちである。

市立の文学館は、「萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館」という長ったらしい名で、3階建ての立派なものだった。

開館9時までにはまだ時間があった。

館の前には、背の低い陰鬱そうな表情のブロンズ像が置かれていて、これは朔太郎像だと直ぐ知れた。親しみにくい印象である。

しかし新鮮な印象を与えたのは、館の前の5.6mほどの川が滔々と流れていたことだ。水は澄んで実に清冽だった。両岸の枝垂れたヤナギも奥ゆかしい。そうして驚いたことに、この川が広瀬川だった。こんな街中の川での釣りだとは私には意外だった。

 

広瀬川白く流れたり

時さればみな幻想は消えゆかん。

われの生涯(らいふ)を釣らんとして

過去の日川辺に糸をたれしが

ああかの幸福は遠きにすぎさり

ひさき魚は眼(め)にもとまらず。

若いころ目にしたこの詩は、どういう訳かその後何かにつけて私の記憶の奥から立ち上がってきた。もちろん「月に吠える」や「青猫」の腺病質な言葉感覚は私を眠らせなかったし、真似をした詩も何遍か書いたこともあった。その当時はこの文語調が朔太郎の精神の後退、疲弊という感じともとれ彼の詩のトップとは思わなかったが、「かの幸福は遠きにすぎさり ちひさき魚は眼(め)にもとまらず。」のフレーズは脳に焼き付いて離れることはなかったのだ。 

 

その川が、これか?

いささか疑問に思い地図をよく調べると、間違いはなかった。ただし広瀬川は市街地を流れてやがてほかの河川を合わせ、伊勢崎市に達して利根川にいたっていた。じゃあこの詩は、もっと街を外れた広々した場所でのイメージかなと思ったが、彼の生まれ、住んだ家を調べると直ぐこの館の近くであった。

意外に街中で釣りをしたのだな、とつまらぬことに感心した次第。

因みに利根川について、利根川はぬすびとのやうにこっそりと流れてゐる。」というフレーズがある。広瀬川とはずいぶんと差がある。

 

私は最近俳句を楽しむようになって、「郷愁の詩人 与謝蕪村」などを読んだ。朔太郎の蕪村への思い入れは激しくて、それはまるで自分自身への賛歌に思えるほどだ。その中で蕪村の絶句 「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」をこう評している。

 

「白々とした黎明の空氣の中で、夢のように漂つて居る梅の氣あひが感じられる。全體に縹渺とした詩境であつて、英國の詩人イエーツらが狙つた所謂「象徴」の詩境とも、どこか共通のものが感じられる。」もし更生してさらに句境を発展させたなら、

「近代の象徴詩に近く發展させたか知れないのである。」

素晴しい賛辞である。ここまで言うか、とも思うところもあるが、そこが詩人の直観である。

では、朔太郎が長生きしてさらに詩境を発展させ得たらどうなったのだろう。私の乏しい知識では、朔太郎は次第に漢文調の詩を書き始め、日本回帰などという文も残している。フランスへ行きたしと思えど、から、振り子が大きくまた戻ったようだ。

・・・広瀬川を見てあれこれ感じたことなど。