凧は天空まで

凧あがれ糸尽きるまでラピュータまで
 
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(絵は、歌川国芳の「江都勝景中洲より三つまた永代ばしをみる図」部分
蕪村より半世紀以上後になる)
 
蕪村に、「凧きのふの空のありどころ」という句がある。好きな句なので以前にもとりあげたかも知れない。
凧はイカノボリと訓み、烏賊に形が似ていることからおもに関西でつかわれた古い言葉らしい。
さて、句は一種不思議なイメージを喚起する。空という空間を、昨日という時間軸で捉えてみせたのが面白いのである。「きのうの空」というとらえ方をかつて誰がしただろうか。同じ空間に昨日あった凧が今日はない、と凧のことをいっているのではなく、凧があった「空間」が今はない、昨日とは空間が違う、という捉え方に思える。

例えば、ルネ・マグリットの「美しい世界」という1962年の絵がある。そこには空とカーテンと、おそらくはりんごが描かれていて、空の一部は切り絵のようにもう一枚の絵の空の上にのっている。鳩の絵では、鳩は実体をもたず異空間への窓口になっている。空がいわば単層ではなく何層にも重なっている。マグリッドには窓や画布やらで、こうした異空間を描いたものがあるが、蕪村のこの17文字は、昨日の空と今日の空が重なっていて、マグリッドの絵を思い出させる。そして俳句にはめずらしく、安定した平板なユークリッド空間を一瞬疑わせるようなシュールな感覚を呼び起こす。
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朔太郎は「郷愁の詩人 与謝蕪村」を著し、蕪村を極めて高く評価したが、その中でこの句を次のように思い入れたっぷりに解説している。
この句の持つ詩情の中には、蕪村のもっとも蕪村らしい郷愁とロマネスクが現れている。・・・「きのうの空」はすでに「けふの空」ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚っている。すなわち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹窿の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーフを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な「古池や」と対立すべきものであろう。なお「きのうの空の有りどころ」というがごとき語法が、まったく近代西洋の詩と共通するソンボリズムの技法であって、過去の日本文学に例のない異色のものであることに注意せよ。
 
芭蕉の古池やと並べおく哲学的な句だと絶賛である。
子規は「俳人蕪村」を発表し、芭蕉と対比して、その句の素晴らしさを世に知らしめた。ところがあれほど蕪村に肩入れしたのに、私が二三、目を通した限りでは、この句を取り上げていない。あれほど蒐集・分類癖の子規のことであるから、この句を目にしなかったわけはないので、取り上げなかったのは、彼の心の琴線に触れず、写生の精神にそぐわなかったということことだろうか。朔太郎の言う「近代西洋の詩と共通するソンボリズムの技法」を感得しなかったということだろうか。

蕪村は当代一流の画家でもあったが、句にもまた、絵画的なビジュアルな傾向がある。
蕪村は自分の幼年期の記憶を、歌川国芳が浮世絵を描くように、言葉で懐古したのかもしれない。「ありどころ」、という語は、いかにも画布を目の前にして構図におもいを巡らしているような響きを、わたしは感じてしまう。