河原でヤナギが満開

柳咲いて大河目覚めの狂詩曲

安倍川の中流を歩くと河原のヤナギが満開だった。眩しいほどのディープ・イエローに咲き誇っている。

まだ風は冷たく傾き始めた午後の光の中で、おびただしい数のヤナギの樹々が燃えるように浮かび上がる。石ころの両岸に沿って、景色に不似合いなほど激しい黄色である。背景の山は陰り始めて青みがかったグレーがまし、ヤナギとのコントラストがいい。しばらく見とれてしまう。

 

ヤナギは種類が多いので同定が難しい。柳と書くのはシダレヤナギ、楊と書くのは枝垂れないタチヤナギなどを指すということだ。私の見ている写真のヤナギは、枝垂れではないので、楊の一種に当たるのだと思われる。ここでは一応「タチヤナギ」としておこう。ほとんど当てずっぽうだけれど。

春といえばサクラが主役だが、このタチヤナギの燃え盛る黄色を見ていると、ちょっと待てよ、この黄色もまた正客として観賞に値すると思えてくる。

わたしはこれまで、早春のぼやッと色づいてくるヤナギをみると、何か不愉快な感情が沸き起こってきて、イライラしたものだった。そうして例えば朔太郎の「柳」のフレーズなどが頭をよぎるのだった。

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。

 

しかしこの色づきは彼らの咲かせる花だと知ってから、それを許せるようになってきた。いまでは季節を真っ先に走り抜けるこの色をむしろ健気にさえ感じるようになった。感情が老化したのせいもあると思うが。

 

枝垂れる柳は「古い時代に中国から伝わったもの」だという。一方タチヤナギやネコヤナギなどの楊は在来種なのだそうだ。しかし万葉集では柳、楊の字が当てられてはいるが「すべてシダレヤナギを指しているのはその歌趣からうかがわれる」ようだ。またその後も日本文芸は在来の楊を謳わなかった。なぜだろう。

この野放図でしかも一瞬のあかるい黄色を、もっと見てやってもいいと思うのだが。

 

(参考:松田修 「増訂 萬葉植物新考」社会思想社

 

以前、ヤナギについてアップした記事があって、自分でも読み直してみて改めてヤナギを意識したので、参考に添付しておく。

柳絮、柳を挿すということ - 続 曇りのち快晴