薯(いも)植えるインカの如く棒つつき
台所で芽が生えていたジャガイモを、初めて植えてみた。といってもただ土を棒でつついて穴を掘り、上らしき方を上にしてそのまま埋めただけ。イモは丈夫だからきっと生長するだろうと信用している。これで一個の薯が数倍になる、と取らぬタヌキ。
さて俳句歳時記(角川文庫 第4版)では、「馬鈴薯植う」がでている。でもジャガイモ植える、とは出ていない。また単に「いも(芋)」というと露などが付随していて、これは里芋のようなものを意味するようだ。「薯」という漢字を使っているのは、馬鈴薯のことと理解できる。また馬鈴薯と書いてジャガイモと読ませる俳句らしい禁じ手もあるのかもしれない。
新ジャガは、季語に認められているようだが、これは新バレイショとはいわない。事程左様に、イモの名前は適当で、いい加減である。
しかしそもそもポテトを馬鈴薯と呼ぶことについては異論があり、「ジャガイモは断じて馬鈴薯ではない」という牧野富太郎博士の説を紹介したことがあった。
博士は、ジャガイモに馬鈴薯という名称を当てはめたのは江戸時代の植物学者小野蘭山で、1808年に著した書物でこれを中国の本にあった馬鈴薯と間違えて書いた、と指摘している。
ジャガイモは中南米の原産で、大航海時代にヨーロッパへ渡り、それが日本に来たのは、「天正4年(1576)に和蘭アムステルダムをを解纜し、遠くアフリカの南端喜望峰を廻り、爪哇等を経て肥前の長崎に来航した商船の和蘭人によってはじめてわが日本に渡されたのである」とも博士は書いている。
(爪哇は、ジャワの漢字。昔の人は漢字に強い。)
以降、日本でこのイモはジャガイモと呼ばれてきた。ところが舶来から200年以上たって、「馬鈴薯」という間違った呼び方が出てきた。ということらしい。
じゃあ、俳句でこのポテトを詠みこむとしたら、18世紀まではジャガイモで、馬鈴薯は19世紀になってからということになる。と考えて、芭蕉・蕪村・一茶から検索してみたが、ジャガイモ、馬鈴薯がほとんどヒットしない。調査が不十分かもしれないが、ポテトをネタにしたものは極めて少ないようだ。イモというと里芋系が意識の中心のようだ。
一茶の中に「門川や栄ように洗ふきゝん芋」がある。飢饉イモとはサツマイモのことか?また「さつま芋一山三文枯の哉」もあるから救荒食物のニュアンスが感じられる。
この辺から推測するに、江戸時代はジャガイモはまだあまり普及していなかったのだろうか。