牧野富太郎展 または菫(スミレ)はセロリ

来世はエノコログサでも良しとせん

(博士の東大助手の頃 明治33年:本と標本の山)

NHKテレビの連続ドラマで、牧野富太郎博士がテーマになっている。これにちなんで、かどうか知らないが、静岡県立の「ふじのくに地球環境史ミュージアム」で牧野博士の企画展があるというので、足を運んだ。

1部屋分の展示という規模は小さいものだったが、博士のつくった押し花標本、手紙などが見られて興味深いものだった。押し花標本には1911年、牧野などと書いてあり、セピア色っぽくなっているが、ゆうに100年は経っているものなので、こんなに長持ちするものなのかと感心させられる。新聞紙に大きく自筆メモ書きしてあるのも生々しい。

博士は1500種以上の植物に命名、40万枚ともいわれる膨大な標本資料を収集、45000冊という蔵書を残したと書かれていました。

解説の中に牧野博士を「植物の精」だったといっているものがあった。さもありなん。

博士が書いている次の言葉は、私の好きなものだ。

「もしも私が日蓮ほどの偉物であったなら、きっと私は、草木を本尊とする宗教を樹立してみせることができると思っている。」そして「私は世人が植物に興味を持てば次の三徳があることを主張する。」といって、第1に、人間の本性がよくなる。第2に、健康になる。第3に、人生に寂莫(じゃくまく)を感じない。と言っている。

(「植物知識」講談社学術文庫

私もこうなりたいなと秘かに思っている。

 

博士は1862年文久2年)生まれだという。明治維新の直前である。以前書いたことがあるが、この時期に本当に独学の巨人たちが日本に生まれている。

たとえば、川口慧海(1866)、正岡子規(1867)、豊田佐吉(1867)。

谷川健一さんは「独学のすすめ」で、南方熊楠柳田国男折口信夫、吉田東伍、中村十作、笹森儀助をとり挙げて、いずれの人も、お仕着せの既成の知識や価値ではなく、自分で学び取り行動し、それが時代を超えるものを残したと共感をうたっている。それが、生きた学問だともいっている。因みに南方は1867年、柳田は1875年、折口は1887年、吉田は1867年、中村は1867年、笹森は1845年の、それぞれ生まれである。どういう理由があるのあろう。

 

余談だが、

展示にはスミレについてのコーナーもあった。「植物知識」でもスミレを扱っていて、次のようなショッキングなことが書いてある。

「昔から菫の字をスミレだとしているのは、このうえもない大間違いで、菫はなんらスミレとは関係がない。」「菫(きん)という植物は元来、圃(はたけ)に作る蔬菜の名でああって、また菫菜とも、旱菫とも、旱芹ともいわれている。」「これは西洋でも食用のため作られていて、かのセロリがそれである。」

ということだという。

仲邑菫さんという天才少女の囲碁プロは、前評判通り強くて勝ち続け、しかもあどけないので大人気であるが、漢字の意味からするとセロリになるのというのは、ちょっと可哀そうだ。囲碁日中韓で盛んに交流が行われているので、中国の方々は菫さんの名前にどういうイメージを持つのだろうか?