漢(おとこ)らの時代は過ぎ去り五月鯉
慧海が越えたネパール・チベット境のクン・ラ峠(5,411m)
(参考に、稲葉香さんというヒマラヤを探検している女性の本(*2)が出ているので、写真を使わせていただいた。彼女は慧海に刺激を受けて、彼の辿ったルートを歩く追体験をルポしていて、とても興味深く参考になる。)
河口慧海の「チベット旅行記」(白水社 上下)を読んだ。前から気になっていた本でたまたま息子が慧海の話をしたので、読む気を起こしたのだった。息子はカトマンズの大寺院の傍らで慧海を知ったのだそうだ。
例によって、通り一遍の読後感想にしかならないが、先ずは驚いた。
簡単に概要を言うと、慧海は僧であり正確な仏典を得たいと熱望して、チベットに侵入した。
当時チベットは鎖国しており、西洋諸外国からも入国を図ったものがあったがことごとく失敗しており、慧海の成功は稀有なことであって、しかも彼のこの報告書は、世界的に極めて高い評価を得ているのだという。「さまよえる湖」でよく知られるヘディンなども多く引用しているという。(*1)
慧海は、ネパールでチベット語を習得するなど3年ほどの準備をしたうえ、単身で重い荷を背負い、リウマチの体に鞭打って、関所を避けてほとんど道のないヒマラヤの峠を越え、チベットに密入国した。捕まれば命はない。無謀と言われても仕方ない。
この峠は、その後の研究によってクン・ラ峠(5,411m)だろうとされている。現在でも道らしいものがあるのかどうか、探検チームであってもなかなか行けないコースのようだ。
雪の中で夜を過ごしたり、氷の川で流されたり、水も食べ物もをなくさまよったりしてながらも、何とか生き永らえたその旅は、壮絶としか言いようがない。チベット入り後はシナ人と偽って旅をし、カイラス山を詣で、ラサに入って一年あまり勉強、医師として名声が高まり法王にも謁見し、多くの書物を手に入れるが、徐々に日本人との疑いが広がってくる中、何とか関所を通過してインドへ逃れ出た、という旅行記である。
この第1回目の旅は、明治30年に神戸を出発、時に慧海は32歳、帰国は明治36年であった。
なんとも大変な命知らずがいたもので、目標に向かって猪突猛進、しかも頭脳は極めて緻密、言論にも長け、欲は全くないという偉人である。チベットの人々を見る目も鋭く的確で、決して蔑んでいない。
そうしてさらに驚かされるのは、かれは迷ったときに、深い座禅の境地にはいりそこから見えてくるものに従うという術を使う。これを「断事観三昧」と名付けて、道に迷ったとき、身分を明かすべきか迷ったときなど命の岐路に立たされた時に座禅を組んでいる。また、雪の中で動けず死を覚悟して夜を明かすことがあった。彼はどうしたかというと、呼吸を最低限にして体温の放出を防いだ。そうして無覚で我を失い、たぶん翌日(もしくは翌々日)生き延びて目を覚ます。これは冬眠だと私には思えた。これ一つでも信じがたい事である。
慧海は、慶応2年(1866)生まれ。江戸末から明治時代に、日本にこういう破格な人物が現れたのはどうしてなのだろう。俳句の子規は慶応3年(1867)、牧野富太郎は1862年生まれ。南方熊楠は1867年。
谷川健一さんに「独学のすすめ」という本がある。
南方熊楠、柳田国男、折口信夫、吉田東伍、中村十作、笹森儀助をとり挙げて、いずれの人も、お仕着せの既成の知識や価値ではなく、自分で学び取り行動し、それが時代を超えるものを残したと共感をうたっている。それが、生きた学問だともいっている。
因みに南方は1867年、柳田は1875年、折口は1887年、吉田は1867年、中村は1867年、笹森は1845年の、それぞれ生まれである。
もちろん、政治、軍事、産業の世界で時代を破った新しい価値を生み出した人がまだまだたくさんいたに違いない。慧海もこうした人の一人であるに違いない。
慧海のチベット旅行記は、日本が新しい時代へ向かう息吹の中で、まさに日本民族のDNAの青春時代だと言えそうな気がして、読後は痛快な気分になったのだった。
それにしても、もっと日本人に知って欲しい人物である。NHKは大河ドラマなどでがっぷりと取り上げてほしいものだ。
*1 「チベット旅行記」(上) 白水社 川喜田二郎の前書きから
*2 「西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く」 稲葉香 彩流社