富士の高嶺に雪は降りける

里人も息のむ富士のしろさかな
 
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(赤人の歌碑 間にうっすらと富士山)
今年2016年の富士山の初冠雪は、10月26日で例年より26日遅くなり、実に60年ぶりの遅さだったとのこと。ただし私は静岡側から9月の末に初雪を見たのだが、このときは甲府気象台での確認が出来なかったため、初冠雪とは認められなかったということだ。
 
雪の富士山といえば田子の浦富士市田子の浦港近くには本当に広々した海浜公園が整備されていて、子連れの家族で賑わっている。ここに山部赤人の歌碑がある。
いうまでもなく下記の歌だが、凝っているのは、長歌反歌の両方が刻まれており、しかもそれが万葉仮名なのだ。ちょっと読めない。(解説がある)(写真参照)
 
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける (「万葉集中西進 )
 
この反歌中西進氏の訳はこうである。
田子の浦を通って出て見るとまっ白に富士の高値に雪が降っていたことだ
さらに解説では、「広い田子の浦を通って、そこから出て見ると。場所は薩埵(さった)峠を東へ越したところであろうという。」としている。
 
「ゆ」は経由する意味なので、富士がよく見えない田子の浦を通過して、見えるところに出てきた、ことになる。実は古くは田子の浦とは現在の「静岡市清水区の薩埵(さった)峠の麓から倉澤・由比・蒲原あたりまでの海岸を指すとされることが多いとされていた」(wikipedia)ようで、今の富士市田子の浦とは場所が異なり7,8km西に当たる。
 
西から来て東海道の難所、薩埵(さった)峠をこえ、視界が開け富士山が眼前にパッと現れるのは、富士川河口近くの浜からではないだろうか。このあたりから沼津市原の付近までは隠すもののない絶好の富士の眺望が楽しめる。もちろん現在の田子の浦も、この範囲にある。
ただしこの古代の田子の浦も、おそらく赤人の万葉の頃は痩せた浜か、富士川河口の湿原であったろう。江戸時代には浜で製塩をする浮世絵もみられるが、安政の大地震(1854)の際に大規模に隆起し今の地形となった。ここに新田が開けたので土地の人はここを「地震山下」と呼び、また地震に来て欲しいと唄ったようである。(「東海道歴史散歩」小杉達)
そのころ、この辺りの古代の東海道はどのようなルートだったかは不明だが、静岡市のJR東静岡駅近くに奈良・平安前期時代の東海道の遺構が残されている。これは幅が12,3mで路面幅が9m、静岡の平野を真っ直ぐに北東に向かって走っており、驚くべき高規格な道路である。昔のこととて決して侮れない。しかし古代田子の浦の辺りはこんな立派な道が敷けたのかどうか疑問である。
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(現在の田子の浦海岸)
わたしは、「うち出でて見れば」を、むしろ浜から舟で海上にでることだと想像するが、そうした解釈はあまりなさそうだ。難路の陸を避けて、舟で現在の田子の浦港あたりまでゆく途中、海上から悠悠と富士山を眺めたというのも絵になるではないか。