日本坂峠を歩く・・・古代の東海道?

今回は友人と静岡の平野を西に区切る山塊の尾根を歩いた。

低山だが急峻なこの山塊は、東海道の難所であり時代によって山を越えるルートが変わっていて、その変遷を知るのも面白い。現在は国道一号がトンネルで通過するが明治のトンネルも立派に残っている。江戸時代の官道はとろろ汁の丸子から宇津ノ谷峠を越えている。中世はそのやや南側を越えるルートで「蔦の細道」といわれ伊勢物語で有名な歌枕にもなっている。

f:id:zukunashitosan0420:20200209074714j:plain

今回のハイクでは、さらに古い古代の峠と言われる「日本坂峠」を目指した。日本武尊が越えたであろうといわれ、峠の名もそれに由来するらしい。宇津ノ谷峠よりもさらに海岸に近い。

 

静岡側の小坂という集落に車を置いて、林道をたどること25分。突きあたりから山道に入り荒れた急坂を30分あえいで、ようやく日本坂峠に到着。標高は302mある。反対に下れば焼津市の花沢集落で、ここにも古い家並みが残っている。

 

当日のコースは、この峠から北に尾根筋を約70分、アップダウンを繰り返してへばったころ満観峰470mの大眺望。富士山が白く静岡市街のビルの上に見えて実に爽やかである。この風景を見るだけでも「来たかいがあった」と友人はつぶやく。平日にもかかわらず2,30人がお昼を食べていて、人気の山なのである。お昼を済ませて山頂から東口を降りてもと来た小坂集落へ、やく1時間の下りとなる。

f:id:zukunashitosan0420:20200209113400j:plain

お茶畑は荒れ放題で林道だけが立派に残っている。以前は2,3年におきに来ていたが、また急速に荒れている感がする。放っておけばお茶の原生林になるかもしれない。

 

さて、日本坂峠だが、古代の東海道だったという説がある。急峻で人が歩くのがやっとで、牛はともかく馬は無理の感がするがどうなのか。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200209074917j:plain日本坂

実は古代の東海道が、JR東静岡駅の南側に出土している。

曲金北遺跡と呼ばれていて、その道路跡は埋め戻されたが、一部が古代の道の案内看板とともに地表に分かる空間にして残している。

発掘の結果は驚くべきものだ。側溝を入れた道路全体の幅は約15m、路面の幅約9m、これが延長約350m一直線に伸びていたのである。調査の結果、この道は奈良時代から平安時代前期のもので、10世紀の初頭頃には廃絶されたものとされた。推定では、この高規格道路が静岡の平野を一直線に現在の興津付近まで貫通していたと考えられるというのだ。

f:id:zukunashitosan0420:20200209075128j:plain

f:id:zukunashitosan0420:20200209075213j:plain

この官道は日本坂峠を越えてすこし北上し、ほぼ今の国道1号の橋付近で渡河し、あとは一直線に興津まで走ったということだろう。

律令期における地域支配の一つの方策としての地域計画が極めて大がかりな企画性の高いもの」*1 であり、古代、あなどれない!

大宰府の水城を見たことがあるが、当時の土木事業の技術レベルの高さそして政治的な力は相当なものだとおもったが、この道路もまた然りである。

 

ただしこの道路は、「駅制」の道路で、それは中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度だという。概ね16キロごとに駅を置き、たぶん使者は文書を携え馬を乗り換えては走ったのだろうと思われる。いわば光通信網みたいなものであって、市民の生活道路ではなかった。ではあの急な日本坂峠を一体どうやって越えてきたのか、私には疑問が残る。

ついでに、「伝馬制」の道も別にあったのだという。そちらは文書ではなく使者が通るいわば人間の道だった。静岡でいえば北街道、そして古代においても日本坂峠ではなく宇津ノ谷峠を越える道が、伝馬制の道として使用されていた、すなわち道は並存していたという説もあるという。*2  制度はわからないが、生活感覚としては妥当に思える。

おそらく奈良時代などには、静岡平野は安倍川の流れが不安定で、一面の河原だったのではないだろうか。ハイキングの途中から見る静岡の街並みから、当時を想像するのは難しい。が遠く富士山の方角に、次の駅、興津が見えている。

 

 *1 「曲金北遺跡」 1997 静岡県埋蔵文化財調査研究所 第92集を参考にしています。(私、素人が読み砕いてます。) 写真も同書から。

*2 同上 212p