柳絮、柳を挿すということ

芽吹きから青柳までの早さかな

 

公園を歩いていると、おや?白いものがたくさん飛んでくる。

柳絮だ。これはヤナギの花のホワタで、近づいてみると今を盛りに枝も真っ白である。

柳絮、と書くと、なんだか中国の古い時代、唐詩や伝奇集を思い出して現実離れした気分になる。

 

また少し歩くと、地面に虫のようなものが一面に落ちている。足の踏み場もない。一瞬、オッとおもうが、これもヤナギの花が落下したもの。これは春先に木全体が黄色に見えていたものの正体だと思われる。先ほどの柳絮とはだいぶ違う。

 

ヤナギは種類が多いし皆似ているので、私は、判別して覚えようとは思っていない、だが漢字で書く「柳」はシダレヤナギ、「楊」はカワヤナギなのだそうだ。銀座のヤナギは柳、ツマヨウジは楊枝となる。ということは、この公園の柳絮はシダレヤナギの穂綿ということになるのだろうか。それほど枝垂れているとは思えないのだが・・・。まあ、あまり詮索する気はない。

 

一茶の句を「やなぎ」で検索すると、相当な数があがってくる。身近で句にしやすい木なのかもしれない、が、「ヤナギをさす」という使われ方が多いことに気がついた。どういう意味なのだろう。例えば、

さし柳翌は出て行庵也                  文化句帖   文化2年

願ひ有る身となとがめそさし柳      文化句帖     2

売家にきのふさしたる柳哉             文化句帖     3

柳さし ~ ては念仏哉                   七番日記     8

 

ヤナギは容易に挿し木で着く。

そのため、「垣根とか・・土地の境、さらには村境や町はすれにも植えられた。橋のたもとや、遊郭の大門の傍らには柳があり、異界との区別を意味していたが、幽霊が柳に出没するのもその背景による。」と、「古典文学植物誌」にある。どうやらヤナギは何かの霊威を持っていたようである。

 

ではその霊威は何なのかと、もう少し漁っていると、折口信夫は「花の話」で、

「柳は齋(ユ)の木である。矢の木ではなくて、齋(ユ)の木、即、物忌みの木である。ゆのぎやなぎになってきたのである。」そして「田の中に柳をさす事は、今でも行われている。柳は枝が多く、根の著き易いものであって、一種の花なのである」と説いている。

折口や柳田の民俗学的な視点を得て、山田宗睦は柳について「花の文化史」の中で興味深い考察をしている。柳の枝を田の水口にさして、田の神の依り代とする民俗があったこと、中国では清明節の日に軒端に柳枝を挿して悪霊や邪霊を祓い、先祖の亡霊が帰郷する目印にするという習俗があったこと。また柳田国男が柳の信仰例としてあげた、「挿し木の成育すると否とに由って、神意を判断しようとした枝占」を紹介し、「ヤナギが挿し木してよく根づくというその性質が、たちまち新年のイネの豊饒の予祝に使われた」としている。

 

こうしてみると、川端の柳が風景が単なるコローの絵ではなく、日本人の長い歴史に息づいてきた習俗に深い関係があるのだということが見えてくる。一茶の「柳を挿す」という句は、庶民のささやかな邪霊払いや家運隆盛の祈りであり、それが江戸末期にはまだ行われていたことを教えている。

 

柳絮をを見て、一茶の句を見たので、ついついこんな処に入りこんでしまった。おぼろげながら、こんな解釈が浮かんでくるが、もちろんしっかり調べないと確かなことは言えない。

ここのヤナギは沼に自生するので、挿さなくても野放図に増えている。