玉之浦(ツバキ)と遣唐使のつながり?

風にあらずメジロ啄む花ツバキ

 

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庭のツバキが、今年はこの十年でなかったほどたくさん花をつけた。5年ほど前は、ひとつもつけなかったのだが、どういう事情があるのだろう。

これは玉の浦という人気のある品種。花弁は赤だがその縁が白く彩られていて目を奪うほど鮮やかであるが嫌みのない品がある。咲き方も筒状から少しずつ開いてつつましさがある。私はツバキのファンでもないが、数多くの品種がある中でも玉之浦は美しいと思っている。

残念なことに、メジロやヒヨの格好のスウィーツらしく、啄まれてしまうので傷のないものがない。

 

玉之浦、というのは五島列島福江島にある地名だという。ネット情報によれば、このツバキはヤブツバキの突然変異で、昭和22年に玉之浦町の山中で一本だけ偶然に発見されたもの。幻のツバキとして愛好家の注目を浴びたが、原木は枝をとられ根をとられして絶えてしまったようだ。

 

さて、ヤブツバキは、学名がカメリア・ジャポニカで、列記とした日本原産の花である。日本のツバキは18世紀、江戸時代にいわゆるプラントハンターらにより、西洋にもたらされた。

以前ドレスデン近くの「ピルニッツ宮殿」を訪れたことがあるが、そこに樹齢200年を越す大きなツバキが繁っていた。それは18世紀に日本を訪れたスウェーデンの植物学者ツンベルク(トゥーンベリ)という人が、長崎から椿の苗を4本持ち帰ったものの一つで、唯一現存するものだと説明を受けたことがあった。それらが改良され、ブームを引き起こしアンドレ・デュマの「椿姫」に開花していくのは誰もが知るところだ。

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 しかし、中尾佐助氏によると、日本は古代に「遣隋使や遣唐使を派遣して組織的に中国文化を輸入したが、その時に日本文化が中国に輸出されなかったか、と考えてみると、その例としてツバキが指摘できるようである。」

「隋の煬帝の詩の中に「海榴」という言葉が出てくる。これは海を渡って渡来したザクロのような花と解され、日本からのツバキに相違あるまいと考証されている。」として、中尾佐助氏はこれが「日本文化の輸出の第1号」ではなかったかとしている。*1古代から日本を代表する花だったといえる。

 

遣唐使のルートは朝鮮半島の西側を経由していたが、8世紀以降はいわゆる南路のルートをとるようになった。これは那の津(博多)から五島列島福江島に寄港し、そこから東シナ海を一気に渡るのである。この福江島こそ、玉之浦のふるさとである。

司馬遼太郎は「空海の風景」で遣唐使船に触れている。*2

「当時の日本が、東アジアが共有していた航海知識や技術の圏外に居た」ために、渡航は実に悲劇的だった。そのため「逃げたり、こばんだりする者もいた」そして五島列島まで来ると、「この群島でもって、日本の国土は尽きるのである。」「ひとびとの疲労と緊張は尋常でなくなったであろう。狂う者も出た」という状況であったらしい。

 

福江島で「水と食料を積み、船体の修理をして風を待つのである。風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本に吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏を選ぶ。わざわざ逆風の季節を選ぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に無知であった」と、司馬遼太郎は酷評している。

 

ツバキのことを考えると、古代に唐に渡ったと思われる日本のヤブツバキもまた、この福江島のものではなかったか。出航の時期はすでに花はないので、根のついた株をこの島から積み込んだのではないか。種も用意したに違いない。空海最澄もそんな作業を見ていたかもしれない。阿倍仲麻呂山上憶良も。

 

ついでのついでに思い出したが、10年以上前のこと。

職場でアルバイトさんを雇ったことがあった。採用されたのは、快活で愛くるしい若奥さんだった。この彼女は、たまたま夫の転勤で静岡に来ていたのだが、何と勤務地がそもそも福江島の人だった。快活という以上になかなか芯の強い女性だった。

昨年この職場の懇親会の席で、彼女のことが話題になり、「それじゃあ!」と一人が福江島に電話をした。彼女もよく覚えていて携帯を回しながら皆でわいわいと思い出を語り合った。

 

玉之浦がわが狭い庭に花をつける。寄り付くヒヨを時おり追いながら勝手な想像・回想が膨らむ。

 

*1 中尾佐助 「花と木の文化史」 岩波新書

*2 司馬遼太郎 「空海の風景」上 中央公論社